無意識日記々

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要は詞先曲後って事なんですが

「日本のうた」を考える時、何よりも障壁なのは我々がその存在を知らない事だ。文明開化以降この国は様々な文化を輸入してきたが特に音楽はもうまるごと海外由来のものになっており、そもそも五線譜自体が輸入品だわな。

なので、最初期から葛藤は「日本語を如何に洋楽に馴染ませるか」であり、1998年の宇多田ヒカルの登場はその歴史の観点から見ても画期的だった筈だ。新しさ云々を考える前に圧倒的な知名度による影響力だけでも凄まじい。

その流れで捉えた時に果たして文明開化以前の日本のうたが何か関係してくるかといえば心許ない。しかし、その頃から「日本語の発音と構造」は余り変わっていない筈で、それに基づいたうたがそこにあれば、前述の葛藤と無関係な、より自然な日本のうたができていただろうという想像は為され得る。

だからこそヒカルも薪能のような古来からの日本のうたにも関心を持ったのだろうし、こちらが気づいていないだけで既に楽曲の中で探訪の中で得た知見を活かしているかもわからない。それでもどうあろうと五線譜に規定された世界観から逃れる術は無い。洋楽は、西洋音楽は我々が音楽を認識する根底から内在しているので。

然るに知識云々より寧ろ日本語の構造自体に立ち返ってそこに音楽的要素がどう住まわされているかを探究した方が早いのかもしれない。一旦音楽を離れて詩人の活動に取り組む時期も、そのうち訪れるかもわからないね。歌詞集『宇多田ヒカルの言葉』が実はその先駆けとして機能していた、なんてことに、将来はなっているかもよ。

折に触れて繰り返してきたテーマ「日本のうた」

ANGRA民族音楽を大胆に取り入れたのは1996年の2ndアルバム「ホーリー・ランド」からで、時を同じくして同郷のSEPULTRAもまたトライバルなリズムをフィーチャーした「ルーツ・ブラッディ・ルーツ」というアルバムを発表、この頃からメタルファンがトライバルという言葉を意識するようになってきた。

民族音楽、トライバルといった言葉を覚えたからといってリスナーとして急に音楽について博識になれるわけもなく、「今のリズム、サンバっぽくなかった?」みたいな緩く浅い認識で聴いていただけだった。しかし、ある特定のパーカッションを使うだけで「ブラジルっぽい」と言わせるのはそれだけサンバなどのリズムが世界中に"ブラジル音楽のアイデンティティ”として強く認識されているという事を意味していた。

では例えば。世界中の人に「日本っぽい」と思って貰える音ってどんなものがあるのか。琴や三味線の音なんかはいいところまで行きそうだが、シタール二胡と区別がつく外国人がどれほどいるか。寧ろ今やアニソンの方が「如何にも日本っぽい」と思われているのかもしれない。或いはBABY METALかもしれない。結構"コレ”というものが無いんじゃなかろうか。

Utadaも昔その「日本っぽさ」をサウンドにどう取り入れるか、いやそもそも取り入れるべきなのかという点でかなり苦心していたように思う。デビュー曲に当たる『Easy Breezy』では歌詞に『コンニチワ サヨナラ』と入れてジャパニージーな所をアピールしていたが、知的ではあったものの効果があったかはわからない。『FYI』でも歌詞に『Tokyo』を入れてはいたが、それもそこまで強いアピールではなかった。

歌詞の面ではそういった幾つかのアプローチはあった。ではサウンド面となるとどうか。最も秀逸なのはやはり『Devil Inside』の大正琴サウンドで、あのセンスは抜群だった。しかし抜群過ぎた為自然過ぎた。あれで「おぉ、日本のサウンドを取り入れているな」と感心した海外のリスナーはどれ位居たのか。大騒ぎしたのはマニアか評論家かという感じじゃなかったか。大多数のリスナーは「Cool !!」の一言で済ましていたと思う。

ここから更に踏み込むべきなのか──というのが今後の課題な気がしている。今までも折に触れてこのテーマは論じてきたが、やはり「日本語」というものから"自然に生まれる”メロディーとはどういうものなのか、というのをどこまで極められるかでヒカルの歌の進化の具合が決まっていきそうな気がしているからだ。故に日本という国が滅びてしまうと勿体ないし、日本語の話者を確保していかないとヒカルの歌を歌い継いでいってくれる人々も途絶えていってしまうだろうなといった事が気に掛かるのだ。逆に言ったらそれさえなければこの国…いや、まぁそんな話はいいやね。うたの話を続けよう。

たまにはメタラーな日記も

先週末に元ANGRAアンドレ・マトスが亡くなったという報を聞いて以来なぜか少しぼーっとしている。ちょうどもう1つ前の日曜日に久々に彼らの1stアルバム「ANGELS CRY」を通して聴いて、やっぱり理想的な音楽性だなぁと再確認していたところだった。

2ちゃんねる創始者であるひろゆきが初めて買ったCDがこのANGRAの「ANGELS CRY」だったそうな。ちょっと吃驚したけど、日本市場の15%でしかない洋楽市場のこれまたニッチジャンルであるメタル界隈で10万枚売ってりゃそういうこともあるかなと。世代的にも丁度この頃高校生とかで音楽聴く機会も多いだろうしね。

自分にとってこのANGRAは「理想的な音楽性の体現者」で。名物A&Rだったジョン・カロドナーをして「JOURNEY meets PANTERA」と言わしめたその音楽性は、HR/HMのキャッチーでメロディアスでメロウな側面とヘヴィでブルータルな面を融合させ、クラシックの旋律を自然に導入し、果ては自らの出自であるブラジルの民族音楽まで取り入れてそれら総てをユーロ・プログレの方法論で纏め上げるという夢のようなサウンドだった。今もシンガーを替え替え頑張っているが、特に初期の頃のクラシックの導入に関してはアンドレ・マトスの影響が大きかったように思われる。彼の前に居たバンドVIPERと同じだしね。

47歳か。自分と5歳しか違わなかったんだな。レコードデビューが16歳ということで早熟の天才だった訳だ。まだ悲しんでいいのかよくわからない感情が続いているのだけれど、ひとまずは、安らかに。

ちょっとは落ち着け日記執筆者っ

映画の主題歌の評判は案の定高く、映像商品も待ち遠しく、新曲の足音も聞こえてきて…というウキウキワクワク状態でいると、ついつい横目に触れた一般ニュースやゴシップとの落差を感じてしまう。それもあってこの日記も昨日は陰鬱な内容が並んだ。変な話だが上機嫌な方がああいう話は書きやすい。ネガティブを受け入れても何ともないからだ。

本当に凹んでる時は受け容れ難い現実を受け入れるのに抵抗が出来る。認めたくないと思うバイアスがかかる。なかなかに難しい。

その一方で上機嫌ということは多少浮ついている訳で、もう少し落ち着いた方が良い。何事もバランスだ。

ポジティブに縋る必要が無い状況は幸運である。ヒカルのライブでの歌唱力に関する評価も、少しずつではあるが「多少貶されても揺るぎない」ところまで来ていそうな予感がする。本音を言えば、浮動層に見せびらかしたい。…聴かせびらかしたい? よくわかんないけど(笑)、これだけ歌えるんだから聴いて気に入ってくれる人沢山居るんじゃないかと。

なので今回の映像商品にネトフリというサブスクな道が開けたのは嬉しい…という話までは今までもしてきているが、更にもっと間口が広がったらなと思う。手軽なところでいえば、日本だと配信最強はAmazonプライムだ。アマプラで動画を観る人は多い。そこで配信されればより多くの人にヒカルの生歌が届けられるんだがな…。

SpotifyやAppleMusicといった音楽系サブスクでもミュージックビデオは配信されている。今回の映像商品に関してそのうちまたYouTubeにライブクリップが追加されるだろうが、サブスクでは一歩踏み込んで、例えば週替わりで一曲ずつ投入するとか出来ないのかな。うーん、ちょっと無理があるか。兎に角、今はヒカルの生歌唱を「みてみてきいてきいて」と言いたくなっていて仕方がない精神状態なので、なんとか方法を考えて映像商品が皆の所により多く届く処方を考えたい。とはいってもフィジカルの方は最早受注生産品扱いなのでそっちを力んでもこれまた仕方がないんだけどね。いや店頭販売分もある筈だけど。という訳で、配信三種が如何に広まるかが今月と来月の課題になる。ここからどんなプロモーションが展開されるか、興味深く見守っていきたいかなと思います。

Comfortable Distance

2006~2009年の『Message from Hikki』はそれはそれは莫大な量で、総文字数ならこの無意識日記よりも多かった程だった。よくもまぁあれだけ発信し続けられたなと。しかも専業ブロガーとかではないし、本業のひとつが作詞という同じく言葉を操る仕事なので影響を与え合ったりもしているし。『Cerebrate』の『触れてないのに感じる』なんかも先にメッセに出ていたんだしな。よくぞまぁ更新し続けてくれたなと。

今だって頻繁にツイートしてくれていてその事自体は感謝に堪えないのだが、単純に文章の絶対量が異なる為あの頃に較べて「今のヒカルが何を考えているのか」が少々わかりづらい。作詞の事もあるのでわからない方がよかったりもするし一概には言えないのだが、サンプルが多ければ多い程、"生きてるリズム”は伝わってきやすい。

ツイッターは140字という枠に縛られる。何通連ツイしても影響はある。その枠があるからこそ生まれるものも多いのだが何しろメッセは自由だったのでヒカルの生のリズムが露わだった。感情の起伏が伝わってきた。Preciousだった。

ファンとの距離感はヒカルが決める。ファンクラブを作らないのもひとつの表明だろう。ミュージシャンの中には特定のファンと何十年も付き合ってきて認知も進んでたりしてかなり親密になっていたりもあるんだけど、まぁ羨ましくないと言ったら嘘になるんだろうけど(笑)、ヒカルにはそういう時間は訪れそうもない。

メッセが始まった頃は"げいのうじん"のブログ自体、自己発信自体が珍しく、「メディアスルー」も新鮮だった。マスメディアを通さず、ファンに直接情報を届ける事が。今はそれに何の珍しさもなく、一方でヒカルは少し距離を置くようになった。だからといって信頼が揺るぐ訳でもなく、心地よい距離感というのはその時期その時期で少しずつ変化していくものなのだろう。今の呟き程度の言葉で生み出されるヒカルの現状のイメージは、ある程度「ヒカルが皆に持って欲しいイメージ」として捉えてよいのだと思う。少しわからない部分が増えているとしてもそれはそれでヒカルの狙いなのだろう。沢山の言葉で伝えたい事が出来てきたらまたそうするだろうさ。その為の場やシステムは、予め用意しとかなくちゃなんだけどね。