無意識日記々

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昭和おじさんのアナログ時代回顧話

サブスクリプションだとかストリーミングだとかカタカナを並べるとどうにも気難しい印象を与えるかもしれないが、実態は逆だ。人類の歴史上これほどまでに音楽にシンプルにアクセスできるメディアはなかった。

アナログレコードの時代はそれはそれは面倒だった。まず、マスメディアが発達していない。雑誌も少なく、FM局もない。数少ないAMのラジオ番組に運良く遭遇して運良く好みの音楽に辿り着けたとしても、アナログが売っていない。国内盤の出ている洋楽は限られていて、都心に出て買い求める必要があった。それでも手に入るとは限らない。電話を掛けまくったり(これも携帯電話がないから固定電話や公衆電話だ)足繁く何軒もショップを梯子して漸く手に入れる。そして手に入ってからがまた面倒だ。塩化ビニルの重くて脆い円盤を後生大事に家まで抱えて持って帰り、慎重にターンテーブルに載せ綺麗に盤面を拭き取り(初回は綺麗なもんだけどな)、これまた慎重に針を落として漸く音が鳴り始める。ステレオによってはアンプが暖まるまで時間が掛かったりね。兎に角手間暇お金が要ったのだ。

サブスクの今は。アプリを立ち上げて今週のオススメをワンタップ。適当に流したり飛ばしたりしながらお気に入りを見つけたらそのアーティストのところに移動して…後は芋づる式に音楽が溢れてくる。到ってシンプル&ファストだ。聴きたい曲やアーティストが決まっているならもっとシンプル。専用アプリでキーワードを入れて検索するだけだ。

確かに初回登録だのログインだのは面倒だがそれもアナログ時代に較べればあってないようなもの。CD時代であってもショップまで買いに行く手間を考えればねぇ。ダウンロード購入と較べてすら手続きがないので楽ちんだ。

要は、サブスクリプション/ストリーミングサービスというのは「やっと音楽がインターネットに載った」に過ぎないのだ。今までニュースや画像を検索してアクセスしていたのと同じ感覚で音楽にも検索できるようになった。ただそれだけ。今までだって十数年前からNapsterP2PYouTubeだと色々あったけど、ここに来て漸く送り手側もある程度納得するシステムが出来た。名前は厳ついが、要は単なるインターネットなのだ。有料のね。

そこらへんの認識を変えて気軽に捉えるだけで随分と話は違ってくる…という話からまた次回。

裸婦抱く映像配信プレオーダースタート

宇多田ヒカルはサブスクにとって広告塔である。昨年旧作をストリーミングに載せた時も「これでサブスクユーザーが増える」と期待された。今回の映像商品もネトフリ加入者やペイパービュー利用者を増やすと期待されている、のだろう。

大きく出れば、宇多田ヒカルとは日本人にとって「音楽を聴く」という行為の中核にある存在な訳だ。新しいメディアの普及率は宇多田ヒカルが聴けるかどうかにかかっている。いやサザンやユーミンミスチルでもあゆでも何でもいいのだけど、そういう類の“牽引者”なのだ。

Netflixに期待されているのは「ライブコンサート映像をサブスクで鑑賞する習慣」をリスナー間に喚起する事、だろう。今までのヒカルのDVD売上を思い出すに流石に大きく出過ぎに思えるが、しかしここは微妙なラインだと思う。宇多田ヒカルって「わざわざ数千円払ってDVDを買う程でもないけれど、テレビで歌ってたら観てみたい」と思ってくれるライト層を山ほど抱えているんじゃないだろうか。ここ数ヶ月続いていたエムオン!やスカパー!でのコンサート放映がどんな評判だったかが気になるところだ。多分、それなりによかったののではないか。だから一歩踏み込んでNetflixでの配信を決めた、とか。或いは向こうからオファーがあったか?

今までの流れならiTunes Storeダウンロード販売して、いってスカパー!ペイパービューまでだろう。昨年末からの音源のストリーミング参画と既存ミュージックチャンネルでのライブコンサート放映の好評の両方を見据えてここでNetflixに踏み込んだ、という見立てをしたくなる。

ただ、梶さんもそこまで重く考えてはないかもしれない。というのは、当初の計画では¥10800の写真集付き3枚組商品のみで確固たる収益を上げ、配信三種は採算度外視で実験的にやってみるみたいなテンションだったかもしれないなぁ、なんて思うからだ。私が。だとしたら取り敢えず今可能なサービスに手を出しただけ、ということもあり得る。やってみてよかったら続けよう程度の重視度で。だとしたらこちらとしても気楽なんだが。

取り敢えず今日からiTunes Storeでのプレオーダーが始まった。これがどれくらいの反応、反響を呼ぶか。今までのDVD購入層の何割がこちらに流れるか、そこを見極めるところからですかね。

木乃伊獲りが木乃伊になった訳じゃないけれど

マスメディアを使ったプロモーションで最も効果的且つ直接的だったのは『Flavor Of Life - Ballad Version』だろう。成功が確約されたテレビドラマ「花より男子2」の劇中歌として使用される中即日着うた配信をして爆発的なダウンロード数を叩き出した。当時の数値で年間世界第2位だったというから恐れ入る。曲の良さは大前提としても、1億2000万人以上の人口の国で全国ネット展開する地上波テレビ局のゴールデンタイムに美味しい場面で流される事が無ければそこまでの爆発力は発揮されなかっただろう。

 

こういう前例があるのだ。もう12年前の話とはいえ。近年でも3年前には『花束を君に』が半年間と『真夏の通り雨』が1年間毎日ペースでテレビから流され続けるというプロモーションが行われた。あたしゃRADWIMPS新海誠のことをズブズブと言ってみたがHikkiとテレビ局も頻度は少ないながらも結構ズブズブなんだな。

 

この経緯と「マスコミ恐怖症」をどう擦り合わせるか、だ。直接の仕事相手なら割り切れるところもあるだろうがツイートにもあったように1週間単位で張り込みや尾行をされるといった我々の与り知らない隠された弊害がヒカルには幾つも襲いかかる。そこを何とかしたいわけだ。それを念頭に置いて商売の話を考えてみよう。

 

 

サブスクリプション/ストリーミングサービスに参画する中でプロモーションをデジタル・ディストリビューションに絞るのもひとつの手だったが、それは机上の空論てましかなかった。ヒカルに期待されたのは、そのサブスクへの加入を促す旗印としての役割だったのだ。「ほら、いつでも宇多田ヒカルが聴き放題。これで毎月千円なら安いでしょ?」という具合に。

 

つまり、ヒカルはヒカルで既に知名度上ビッグになり過ぎていて単独で一個のメディアとして機能すると見做されているのが現状なのだ。「花より男子2」の高視聴率に助けられて800万ユニットを売ったように、他のミュージシャンたちがヒカルのサブスク参画して助けられるカタチで自分たちの利益を得ようとしている。ミュージシャンたちってより彼女らが所属する事務所なりレコード会社なりが、だが。

 

勿論ヒカルは自分がひとつのメディアだからといって誰かに有名税を払って貰える訳でもないのでそこが歯痒くなる一端でもある。そこからどうするかを考えるのが次回のテーマになるかな。

悪口は無視よりずっと嬉しい

ヒカルが今後もマスメディアと付き合っていく中で忘れていたいけれどもどうしても忘れていられないキーワードが『マスコミ恐怖症』だ。2013年9月18日のtweetsは今読んでも相当キツい。もう6年も前の話なのにとても正視できない。当事者でない者が読むだけでそんな感情に苛まれるのだから書いた当事者の感情はどれだけのものだったのか。最早想像が及ばない。何か声をかけることすら憚られる。

『マスコミ恐怖症になってしまった』と言い切った人がこうやって復帰して大衆を相手に歌っているのは奇跡である。本人の希望だからとか意志だからとかで責任逃れしてよいことではない。マスメディアの目は大衆の目だ。奇跡にはただただ感謝と猛省をするのみである。

本来なら、たとえミュージシャンという職種に復帰するとしてもマスメディアを使わない方法論を選択する事も出来た筈なのだが、恐らくEMIとの契約というのもあったのだろう─そう考えそうになるところだが、ならばSONYに移籍してもこうである必要は無かった筈。感謝と猛省と言ったが、やはり「ファンが待っているから」に尽きるとしか言えない。我々がそれから目を背ける事はできない。

恐怖症が6年で克服できるとは思えない。年月としても短いものだし、何よりマスメディアが変わった様子が無いからだ。今同じ事があればまた同じ事をするだろう、と希望的観測を差し挟んですらそう思う。何かが変わった気がしない。

いつも言っているように、対処法はマスメディアをまるごと無視する事なのだが、そこで前回の論点が立ちはだかる。宇多田ヒカルの商業音楽活動はマスメディア無しでは有り得ない。そういう構造になっているのだ。ヒカルは百も承知だろうから、シンプルに我慢しているのだろう。マスメディアに追い掛けられる事を。もしいつか「もう平気」とヒカルが言ったのなら、それはそう口にした気概を尊重しはするが、当たり前だが実際に平気な訳が無い。平気になるのは、今のマスメディアが全く変質して有名税とやらがゼロになることだろうが、それは彼らがゼロまで滅びる事と同義かもしれない。そして、ゼロまで滅びたとしてもトラウマは残る。心の傷は時に何十年も人の心を潰えさせる。侮れぬ。

そうやって毒を喰らってまで人前に立つヒカルの気持ちを汲むのなら、ある程度は大人に振る舞おう。ただ、ヒカルファンは人がいいからなかなかわかって貰えないのだが、非難や糾弾は無視より遙かに好意的だ。我々が言及するのであれば、どれだけ悪し様に罵ってもそれはメディアにとってほくそ笑むべき利得でしかない。クリックひとつ、タップひとつが彼らに力を与える。それは覚えておいて欲しい。悪口は無視よりずっと嬉しい。

よくわからないチキンレースになるのかな。人の口に戸は立てられず、民の醜聞好きは何万年の歴史がある。人前で歌うことにも何万年の歴史があるだろう。どちらかが音を上げるまでこの毒の喰らい合いは続いていく。距離感は、その中で語り合うべき観点だ。前回の続きは次回だな。

Distance between mass & me

音源と映像両方でサブスクリプション/ストリーミングを強化していく中、難しいのはマスメディアとの付き合い方だ。テレビ・ラジオ・新聞・雑誌・書籍といった旧来のメディアは広告費でインターネットメディアに抜かれながらもまだまだ元気。寧ろ資産額を考えれば旧来メディアに親しんでいる層の方が総体的には遙かに強いとすらいえる。

宇多田ヒカルはマスメディアの爆発力に頼ったプロモーションで20年やってきた。これは特異な事である。露出頻度が小さいのにな。

ジャニーズなどに顕著だが、兎に角テレビに出まくり続けるのがマスメディアに住む人間の基本だ。ヒカルは隠れキャラに近い。プチハレー彗星状態。

普通ミュージシャンの場合、最初の最初こそテレビ新聞雑誌の瞬発力に頼って知名度を得るが、そこから先は活動を継続する為に地道にツアーを続けたりファンクラブを強化したり冠のラジオ番組を持ったりして熱心なファンを繋ぎ止める工夫をする。

ヒカルはそのどれにも当て嵌まらない。常にファン層が入れ替わる事も厭わず、寧ろ敢えて新曲毎に新たなファンを獲得する事で活動を継続してきた。勿論そうやって新たなファンを得てもすぐツアーとはならない為繋ぎ止めるのは難しくまた次の新曲で魅了するしかなかった。かなりの自転車操業だ。

その度にテレビドラマやテレビコマーシャルや邦画新作とのタイアップで宣伝を繰り広げる。その波及力無くして例えば『Flavor Of Life』や『花束を君に』の大ヒット&知名度は有り得ない。欠くべからざる必須要素なのだマスメディアの協力は。

当然向こうも宇多田ヒカルの“神通力”をアテにしているのだからgive-and-takeなのだが、もし関係を絶ったとしても向こうはすぐさま代わりを見つけるだけでそこまで痛手は無いだろう。一方でヒカルとレコード会社にとっては死活問題だ。やっぱりそこは非対称。

そんな中でストリーミングサービスという日本では新しい手法に手を出そうとしている今、改めてマスメディアとの関係性を問い直してみたい─という話からまた次回。