無意識日記々

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ハイレグとかスクミズとか水泳の話題かよ(違)

おー米津玄師大体全音源がサブスク解禁されたのか。遂にやっちゃいましたかー。

この間も触れた通り、ビッグ・アーティストにはサブスク市場自体の拡大が期待されている。その中でも目下最大の本命が参入した事で一気に加速する、のかな。或いはダメ押し気味なのか、いずれにせよこれでもう商業音楽リスナーはサブスクが基本になりますわね。

一方でその米津さん、今日発売の新譜が初回出荷100万枚超えだそうで。記事の書かれ方からすると昨日の店頭陳列日付のバックオーダーをプラスして、という感じだがそれにしてもCDがまだそこまで買われてるのも素晴らしい。パッケージで持っていたいという愛着や少しでもいい音質で聴きたいというニーズがあり、更に世代を超えて愛されているのだろう。我が世の春のアーティストですねぇ。

しかしこちら宇多田ヒカル陣営は、大幅に先にサブスク解禁しておいてよかったね。彼より遅れてたら如何にも不承不承現況に負けてという感じが漂った事だろう。特に具体的には思い浮かばないが、これから解禁する大物が居たら同情するわ。こういうのって、当事者の意向が必ずしも反映される訳でもないからねぇ。

という感じなので、宇多田ヒカルは、ここからもっと攻めていった方がいいかと思われる。流れが決まったら先んじる。まぁ追い立てられるよりは気分がいいだろう。状況を面白がれるかが鍵だろう。

既にハイレゾストリーミングなどはスタート時から参加しているし、ライブ映像を定額配信に組み込む作戦も遂行している。順調だ。ここから何を加えていけばリスナーが喜ぶのか。やはり『Laughter In The Dark Tour 2018』だけでなく、過去のライブDVDもまた定額配信に乗っけられると歓迎されるのではないか。iTunes Storeでは各ライブ作品が『In The Fresh 2010』も含めてダウンロード購入出来るが、これらを高音質高画質で定額配信で視聴できる枠組みが出来ればいいなと。特に『In The Fresh 2010』は日本語圏以外のファンのウケがよさそうだ。『Passion/Sanctuary』や『Simple And Clean』といったキングダムハーツシリーズの楽曲も聴けるしね。

今後はそこから更に更に踏み込んで、ライブDVDどころか、最初っから定額配信目的でライブシューティングをするようになるかもしれない。シングル曲音源だってフィジカルがリリースされなくなって久しいし、ならば映像商品もどうなるかわからない。収益構造と顧客のニーズ変化次第だろう。サブスク加入にまだ尻込みしてらっしゃる方々もいらっしゃるかもしれないが、徐々に状況は変化しつつあると認識しておいて貰えれば有り難い。何より、楽ちんなんですよサブスクってね……。

2Y/2H

ヒカルが卓越したメロディ・メーカーなのはわかり切った事だが、さりとて常にカンタンにあの美しいメロディを生み出している訳では無い。『For You』などは歌詞がハマるまでに2年が掛かったという。天才と思わせておいて努力と執念の人でもあるんだなと感じさせる。一方、『Apple And Cinnamon』のような美しい曲を「2時間で出来た」と言い放ってしまうのだからやはり常人には真似出来ない天才なんだなともまた痛感する。

『For You』も『Apple And Cinnamon』も何れ劣らぬ美しいメロディを持った楽曲だが、やはりというべきか、時間を掛けたか掛けてないかが如実に出ている部分もまたある。

『For You』は兎に角メロディの捻りが利いている。構成自体はAメロBメロサビ&展開部というオーソドックスなものなのだが、メロディが単純な繰り返しをなかなかしない。1番の出だしは『ヘッドフォンをしてひとごみの中に隠れると』だが、2番の出だしは『起きたくない朝も君の顔のために起きるよ』だ。初めて聴いた時ここで「おおっ」と仰け反った記憶がある。そうやって1番も2番もAメロは別の経路を辿りながらしっかりとBメロで『散らかった部屋に帰ると』『勘違いしないでよ誰も』と1番2番共に同じメロディに帰着する。ホントここらへんしこたま練りこんだんだなぁと思わせる。

『For You』に関してはサビのバリエーションも豊富だ。特にラストの『優しくなれたらいいのに』『君にも同じ孤独をあげたい』『歌える歌があるなら』『誤解されたら張り裂けそうさ』の四段活用による畳み掛けは筆舌に尽くし難い。細部まで練りに練りに練り込まれまくっている。織り積み重なっていく感動である。

一方、『Apple And Cinnamon』はBメロの歌詞がずっと同じだ。ちょっとは変えろよと思うくらいに同じだ。恐らく、思いついたメロディにそのままパシッと当てはまったそのフレッシュな感覚を大切にしたかったんだろう。手抜きと謗られるも覚悟の上の潔い態度だ。もっとも、3回目の繰り返しでは冒頭に『oh...』を挟んだり、4回目の繰り返しでは『just』の音程を変えたり(毎度ここで悶絶します!最高!)と、フィーリングに基づいた変化はあるのだけど、それもどちらかというとナチュラルにそうなりましたなナマな感じが強い。出来たまんまをレコーディングした楽曲なんだと思わせる。

と、いうふうにそれぞれに練ったか練らないかでの特徴は出ているものの、やっぱり2年掛かろうが2時間で出来てようが同じく美しいメロディを持つ事には変わりない。フルオーケストラを呼んでおいてそのテイクを躊躇なく没にするヒカルさんからすれば、過程にどれだけ時間や費用がかかっていようが、結果が総てなのだ。その判断を誤らない、真の意味でのプロフェッショナルなミュージシャンなんだと思うよ。

あてずっぽ

そんなに見映えが美しいんだったらお芝居やっても映えるんじゃないのヒカルさん??とついつい思ってしまう。『Fight The Blues』でも『女はみんな女優』と歌っているのだし、『HERO』じゃカメオ出演をOKしたじゃない? やったらやれると思うんだけどなぁ。

なんて言ってる私だが、落ち着いて観ていられる気は全くしない。映画やドラマの中でヒカルさんが悲しんで泣いてたりしたら正気じゃ居られないのでは。役者になった娘の演技を見た時の頭のネジが外れた親バカクレイジーみたいな事になると思う。おはなしだってば。

そうなのよね、演技力の心配というより、何の役をやったらハマるかというのがよくわからない。お話の中の人物というのは過度に理想化されていて、現実には居そうもないスーパーパーソンだったりするのだけど、ヒカルさんがそもそもそれですよね。演技をするにあたって、常に人間としてダウングレードするというのはどうなんでしょうか。美人女優が冴えない女の子を演じるのは定番かもしれませんけれども、それでもねぇ。

もしかしたら宇多田ヒカル役しかやれることがないのでは? しかし、それをするとドラマがあっという間に終わってしまいそうでな。恋に悩む主人公の女の子の相談相手になる親友役として出たとしよう。相談が的確過ぎてすぐに主人公は適切な行動を取れてしまい瞬く間にハッピーエンドを迎えそうで……面白いかこれ?(笑) まーそれは言い過ぎにしても、なんだろうね、結局「今持ってる才能よりも“持ってない”人間になる必要がある」気はするねぇ。

となると、そこはあっさり認めてしまって本人役で次から次へと難事件を解決していくそういう役柄ならやってみてもいいんじゃないだろうかなという結論に、なるかな。毎回全てが一件落着したあとは一曲ライブで歌うサービス付きで……って、なんだこのシチュエーション・コメディ……。

どちらかというと、コントに取り組む喜劇役者の方が似合ってる気がしてきた……いやそうなると既に『Laughter In The Dark Tour 2018』で又吉直樹と一本撮ってるやんね……あれは本人の資質を見抜いた上でのオファーであったか。だったらまたやってもいいんじゃあなかろうか。相性というのはあるかもしれないが、喜劇やコントであれば「役者:宇多田ヒカル」もアリかもしれないなと思うのでありましたとさ。

半神半人ひかるひめのかみさま

それにしてもヒカルさん、なんでこんなに座り姿が神々しいの? フォトセッションだから気合入ってたのかと思いきや、インスタの舞台裏でもやっぱり神々しい。現人神になりつつあるのか。あたしん中ではあらゆる神よりやんごとなき人だけれども。

そんな過激派をさて置いたとしても、写真のヒカルさんが特別な人だとは多くの方が思うのではないだろうか。特に、なんだろう、東洋的でもあり西洋的でもある佇まいというのか。どちらに振れることも無くそのどちらでもあるような。

着ている服はお世辞にも格好良いようには見えていない。着ぐるみ脱いだとこだとかパジャマだとか色々言われているのを目にしたのでそう思ってるのは私だけでもないようで。しかし、ヒカルさんが着て座るとそれでOKになるから不思議だ。分析的にみると間違いなく黄色人種の東洋女性なのだが、受ける印象は人種も性別も太平洋も大西洋も超えた何かだ。

湛える陰翳は深い闇をも飲み込みそうでそれはレンブラントの絵画のようでもあるし、表情の達観ぶりと世界を包み込みそうな大局観は密教曼荼羅を眺めてる気分にさせられる。なんだろう、おばちゃんが座ってるだけなのにな。なんか、すげーなこれ。

『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品にはライブフォトブックがついていてぐっちょぶ極まりなかったが、やはり次は宇多田ヒカルを被写体にした真正面からの写真集を発売して、いやさ写真展を開催してくれたら喜ばしい。こんな被写体撮りたい写真家は世の東西を問わずごまんといらっしゃるだろう。誰かヒカルが断れない位の大御所さんがオファーを出してくれないかねぇ。あ、あたしは相変わらずマチェイ・クーチャがいいのです。インスタで時々見掛けるんだけど、センス抜群だよねぇ彼ね。

市場を支える家内制手工業

週末はヒカルが『Time』MVの裏側をInstagramに投稿してリアクションが盛り上がった。昔はDVDシングルやビデオ・クリップ集にメイキング映像が収められていて、それが購買意欲を促進していたんだが、今はそれがないからねぇ。本来なら商品化される素材をこうやってフリーにアクセスさせているのだから太っ腹だ。こっちとしては「もっと儲けてくれていいんですよ!?」という気分だが、気前がいいねぇ。

それはヒカルの気持ちもそうなのだろうが、現行、サブスク時代に必要なのは注目度を集めること、即ちユーザーの時間を貰うことであり、その為の撒き餌は幾つあっても足りないものだ。梶さんはきっといつもファンサービスとコストのバランスに悩んできただろうし今も悩んでいるだろうけど、ファンクラブがない分無料のWebサービスを強めてきていた宇多田ヒカルの歴史からすると、実は今の状況の方が肌に馴染んでいるかもしれない。

ただ、ヒカルには、この時代に即してもうひとつ役割がある。「サブスク時代はユーザーの消費時間の奪い合い」なのだが、それは定額配信がゼロサムゲームだからだ。決まった配信収入を多数のプレイヤーが奪い合う構図になる。しかし、配信収入が定額とみなせるのは加入者数が一定の場合だ。宇多田ヒカルというネームバリューに期待されるのは、そもそも、その加入者自体を増やす事だろう。

実際、一昨年12月に本格ストリーミング参入した際には大きな話題になった……といっても、ここを読みに来ているようなリスナーは大体過去音源を購入していたろうからそのテンションは実感から遠かったかもしれない。しかし、ライトユーザー、新しいファン、若いファンにとっては別だったろう、かな。

また、Netflixで『Laughter In The Dark Tour 2018』を公開した時は、Netflixユーザーが増えることが期待された。読者の中にもそのままNetflixユーザーになった方々がいらっしゃるのではないだろうか。

一方、その後の予測不可能だったqurantine生活で全世界的にNetflixユーザーが増えたので、そこからヒカルのライブを観てくれた人も出てきていたようだ。やはり定額配信の消費層は数が多いのだろうな。

いずれにせよ、宇多田ヒカル知名度は、時間消費の中で「音楽鑑賞」そのものの割合を増やせる可能性を持っている。何かにつけてあれもこれも商品化してみせて欲しいと願うのは私を含めた「財布に紐がそもそも無い」人種のサガなのだが、ヒカルはもっと大局的な役割を期待されている。細かいリリースで信者相手に小銭稼ぎしていると思われるのは得策ではない。普段は大盤振る舞いをしておいて、アルバムとツアーでどん!と収益をあげるような、そんなスタイルを貫くべきなのだろう。こちらとしては歯痒いが、そこらへんの事情を汲むのも長年の人間の意識のありようのひとつなのではないかなと自宅で頑張るヒカルとみなさんの姿をみながら思うのでありましたとさ。