無意識日記々

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音楽用語で「活き活きと」という意味です

『Animato』には三人(三組)のロックレジェンドの固有名詞が出てくる。

『DVD's of Elvis Presley

 BBC Sessions of LED ZEPPELIN

 Singing along to F. Mercury

 Wishing he was still performing』

常々「歌詞を歌手の日記が何かと勘違いしてる人がいる」と憤慨していたヒカルさんですが、これ明らかに「最近聴いてた作品」をそのまま歌詞にしてますよね? 日記みたいなものなのでは? ──いや勿論、大変少ないケースのうちのひとつなんですけれども。

この三組、エルヴィス・プレスリーレッド・ツェッペリンフレディ・マーキュリー(クイーン)はそれぞれ1954年、1969年、1974年デビューの、それぞれに売上の世界記録を持つスーパースター達だ。

我々からみればそれこそスーパースターのヒカルパイセンがそこから更に憧れる男達の名がここに並んでいる。語呂で選んだ人選とかでないのは、歌詞の言いづらさやフレディを『F.』にせざるを得なかった尺の都合からも明らか。この人選でなくてはならなかったのだ。

男ばっかりだね。憧れるなら同性歌手もとか思うが、そもそも元々フレディ・マーキュリー大好き人間なのは昔からで、「きゃーフレディ!」とか今のノリでは考えられない程のファン気質を見せていた。歌詞の尺が合おうが合うまいが歌に捩じ込んできた事からもその思い入れの深さが窺える。そもそも最後の『Wishing he was still performing』〜「彼がまだ歌ってくれていたならと願う」というのはフレディを指しているのだろう。レッド・ツェッペリンのメンバーは4人中3人ご存命だしね。

それぞれに対する接し方も興味深い。プレスリーがDVDなのは、彼のステージ上での立ち居振る舞いやら映画での演技やら、音楽のみならずそのアピアランス、存在自体が超ウルトラスーパースターだったからだろうし(実際、単独の人間としては人類史上最高最大のスターのひとりだろう。マイケル・ジャクソンですら霞む程の。)、レッド・ツェッペリンがライブ・アルバムなのは、彼らが史上最高のライブバンドだったからだろうし、フレディと一緒に歌うのは、彼の事が好き過ぎて、更に嗚呼彼みたいに歌えたらなぁと思っているからだろうし。『Bohemian Summer 2000』では彼のソロ曲から『Living on My Own』もカバーしてるしな。

この曲がリリースされたのは2004年。となるとこの歌詞は20歳とか21歳とかで書かれていそうで、今こういう風に「自分の好きなアーティスト」を歌詞に綴るとすれば誰を取り上げるかも気に掛る。PJハーヴェイなのかトレント・レズナーなのか、はたまたまだまだフレディなのか。『Automatic』だってPart IIを作ったんだから『Animato』もPart IIを作っていいんだからね。今だと「Andante」とか「Adagio」とかになってたりして……(※ 両方とも音楽用語でゆっくり落ち着いてみたいな指示)。いや、今こそ「Allegro」(速く)なところを見せてくれるのもいいかもしれんな。夢は広がるぜ。

卑小で個人的な大作主義への拘りの話

ダーティ・プロジェクターズの2分の曲を聴いた後にはイ・プーの「パルシファル」を聴く。10分の曲だ。ポップソングが大体3〜5分である事を考えるとまぁ大作主義の範疇に入るかな。兎に角後半メロディーの流れが途切れない。この長さになってしまうのも仕方ないかなと納得させられてしまう。

大作主義というときに、自分の場合は単純に曲の長さの事は指さない。主題が複数あって優劣が決まらない曲をそう呼ぶ事が多い。

なので、例えば『Kremlin Dusk』や『桜流し』は5分前後の長さの楽曲だが自分にとっては大作主義の範疇に入る。

まず単純に、曲が始まった時の雰囲気と後半の雰囲気がまるで異むているのが大きな特徴だろう。『Kremlin Dusk』の場合はテンポまで変わる。ヒカルの曲では極めて珍しい。あとは『Passion - after the battle -』くらいだろうか。

桜流し』も、静かに始まって暫く静かに歌っているのに、新しい主題として地の底から突き上げてくるようなベースラインが加わる事で曲調が俄に激しくなっていく。前半と後半で、歌メロは共通していてもその激情の発露ぶりはまるで別の曲のようだ。やはりこういうのは大作主義と呼びたくなるのよ。

こういった曲調の元祖はレッド・ツェッペリンの「幻惑されて」と「ゴナ・リーヴ・ユー」の二曲だと相場が決まっているのだが、ヒカルが一番好きなツェッペリンの曲は「貴方を愛しつづけて」なんだそうな。こちらは7分半の長い曲だがテンポがゆっくりだからそうなってるだけであたしが今言った大作主義の曲ではないわな。やっぱりメインの趣味という訳では無いのね。余談だがヒカルが「貴方を愛しつづけて」をカバーしたらとんでもないことになるだろうねぇ。

そんな諦念を抱いていた私にいきなり放り込まれてきたのが5つのパートからなる『誰にも言わない』でね。この曲を大作主義と呼ぶ人は世の中に誰一人居ないと思うけど、私の趣味にはドンピシャにハマった。こういうのなんですよ、えぇ。ホントにこの曲はPreciousだわ……いやcubic Uじゃなくってよ……プレシャス、大切ってことね。この曲があるだけで次作は既に大名盤確定なので大船に乗ったつもりで今居るところなのですよ。あぁ、アルバムはいつになるんでしょうねぇ。楽しみだわ。

今更だけど何で青い歯なの…?

私が最初Bluetoothイヤホンを使い始めた時は、有線イヤホンに較べて沢山プレイヤー本体の電池を食うなぁと思い電池に不安がある場合は有線の方を使うことが多かったのだが、最近ふと気になって両者の電池の減り具合を較べてみたら、どうやら今はBluetoothイヤホンを使った方がプレイヤーの電池が長持ちするみたいでな。うへー。

これ、最初からだったのかBluetoothのヴァージョンが上がって伝送効率がよくなったのか、どっちなのかはよくわからん。何れにせよつまりプレイヤー本体がイヤホンで音を出す為に供給する電力量よりBluetoothイヤホンに信号を無線伝送する電力量の方が少ないってことでな。イヤホンを鳴らす電力は都度イヤホン自身の電池から供給されている訳でね。プレイヤー本体とは別の電池が利用出来るとなると、そっちの方が効率よくて長持ちするのは道理だわね。最近のBluetoothイヤホンは、完全セパレートでなければ10時間以上充電無しで稼働するものも多いので、その差はかなり大きくなるわな。

ヒカルも前に、ソニーに移籍したからというわけでもあったりなかったりでBluetoothイヤホンのCMに起用されていた。ちょうど日本の大手メーカーが完全セパレートのBluetoothイヤホンを本格的にプッシュし始めた時期という事もあり、その頃から特に女性がイヤホンをつけて外を出歩く光景が格段に増えた気がする。髪型に支障がないというのはやっぱり大きいんだろうかねぇ。

それを以て「“宇多田ヒカルがTVCMでBluetoothイヤホンをスタイリッシュに身につけていたから”完全セパレートが定着し始めたのです。」と言ってしまうのは完全にファンの贔屓目になるとは思うが、ただ、事実がそうであるかどうかは別として、そういう印象を持つ人がそれなりの数出て来ても不思議ではない状況になった、くらいは言ってもいいかもしれないわね。

FOMANintendoDSの時もそうだったけど、新しい時代を切り開くガジェットが紹介される度にヴィジュアルとして宇多田ヒカルの御姿が共に記憶されるというのはなかなかに趣深い。果たして次にヒカルがCMに起用される新しいガジェット候補には何があるのか。SONYさん、それに相応しい商品の開発を是非々々お願い致しますよっと。

それにしても、最新テクノロジーの粋を集めた最先端の機器のCMに出る一方で、山に登って水を飲むという人類が地球に生誕してから(いやする前からだわな)ずっと行ってる営みを披露するCMにも出演して両方とも「宇多田ヒカルいいなぁ」と言わせるとか、その振り幅の大きさがとても嬉しいことですわねぇ……。

気軽さと手軽さの根付き

先月発売されていたダーディプロジェクターズのEPを聴いて「こういうのでいいんだよ」と思わず呟いてしまった。ほぼ弾き語りのみのシンプルなポップソングを流していると、大変癒される。心地好い音色と、ちょっとしたメロディー。それだけでほっとする。あぁ、いいなぁと思える。

ついついこの日記ではヒカルさんの歌詞を深読みした話をしてしまう機会が多いが、普段からそんな風に眉を顰めて歌を聴いている訳でもないんだぞ私も。殆どの場合はただ流して「うまいねぇ」「泣かせるねぇ」「いいねぇ」とか言ってるだけだ。

実際、何度も「シンプルなポップソングとしての機能性」の話もしている。自動販売機でジュースを買って飲むような感覚で、ちょいと耳を傾けたら一息つけてまた少し元気を貰えるような、そんな歌をせわしい合間に聴いて癒されたい。それが出来るのがポップソングというものでな。

『初恋』というアルバムは、そこが“捻れて”いたんだよね。このアルバムに収録された先行シングル風に扱われた楽曲は『大空で抱きしめて』『Forevermore』『Play A Love Song』に『初恋』といったところだが、どちらかというと「シンプルなポップソング」という意味合いではアルバム曲だった『Too Proud』や『Good Night』や『パクチーの唄』や『残り香』の方が相応しいように思えた。唯一、『Too Proud』は後からリミックスが単曲リリースはされたけどね。

『Laughter In The Dark Tour 2018』でのパフォーマンスからもわかる通り、『初恋』の頃のヒカルは壮大で雄大で優美な作風と歌唱を追い求めていたように思う。その最高の結実がライブでの『初恋』の中間部、無限の永劫を感じさせた無音部分の緊張感だった訳だが、そう、結局それを突き詰めると聴き手の集中力を目一杯引き出す事になったのだった。何しろ1万人以上のコンサートの聴衆の誰一人としてその無音部分に於いて物音を立てなかったのだから。

あの一瞬は一生涯の思い出として深く刻まれていて、それはもう勿論それでいいのだが、あそこまでいくとポップ・ミュージックの「軽さ」即ち「気軽さ」&「手軽さ」からは最も遠いものに思えた。あたし個人は別に音楽はポップであってもらってもそうでなくてもどちらでもいいし、大体プログレメタラーなんてヘヴィで重厚で感動的なモーメントを追い求める種族なのだからそれはもう宇多田ヒカルさんほんとあんたは最高だよと叫ぶのみなのですが、当のヒカルさんがそもそもどの時代に於いても「ポップであること」にやたらと拘り続けてきているので、なんだろうな、『Passion』や『誰にも言わない』が「アウトな曲」であるという言い方言われ方をするとき、セーフやインの曲の存在を前提としている訳で、やはりそこは、収入や生業より更に前の段階の、生き方や生き様、毎日の営み方過ごし方そのものの中に「ポップであること」がヒカルの中に刻み込まれているのではないかなと。

本来「ついついそうではなくなってしまいがちなので」という注釈への留意だったポップであることへの心掛けが、いつの間にかヒカルに深く確り根付いていて、今となっては、案外ほっといたらそういう曲出来てくるんじゃない?と少し思えるようになってきたかなと。アルバム『初恋』のC面D面の楽曲にはその萌芽がナチュラルに無意識にみられるようになってきているのではないかなと、そんな風に解釈してみるのでありました。軽さもまた重要なのですよ。

それもきっと時間がたてばわかる

『サングラス』で『いつも強がりばかり』と歌っているのを聴いた後に『Prisoner Of Love』の『強がりや欲張りが無意味になりました』を耳にすると何と言うか感慨深いわねぇ。

それまで自分を偽ったり隠したりして生きてきたけどたったひとつの出会いで正直な自分を取り戻す、というかそこで初めて得ているのかもわからないな。そして『Time』に至っては更に『あの頃より私たち 魅力的 魅力的』とその出会いから先についても描いている。

一方で『あなた』のように母親目線を前面に押し出してきた曲も出来てたりして、勿論、毎度繰り返し述べてるように「歌詞は歌詞」なんだからそれは虚構だとまず受け止めるべきなんだが、単純にリスナーの方が『あの頃』と歌われた時にそれに相当する時間を積み重ねていていたりもするのが20年以上歌っているの人の周りで起こる事なのでね。例えば『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』だって、様々な過去を連想できて初めてジョークとして通用するんだし。その過去を知らない人も「そうなのか」と思うだけでいいのでこの歌を楽しむ時に過去が必要になる訳では無いのだが、歌詞を書いてるヒカルが「こんな風に捉える人もきっと居るよね」と思いながら歌っている感じは漂っている。

そこまでは普通といえば普通なのだが、ヒカルの場合デビュー曲で『時間がたてばわかる』と歌ったり(『time will tell』)、デビュー6年で『思い出せば 遥か遥か』と歌ったり(『Passion』)と最初から老成しているような雰囲気も醸し出してきた。つまり、実際は様々なフェイズの歌を歌っている中でリスナーの方が自分自身の状況を反映して“勝手に”歌詞を解釈して楽しんでいるということも出来るのだ。

最初に引用した『サングラス』と『Prisoner Of Love』の間には発表年月にして7年の隔たりがある。その間にヒカルが変わったというよりは、リスナーの“心構え”の方が変わっていったと考える方がしっくりくる。また将来、何十年後かにヒカルがコンサートで『time will tell』を歌った時、歌の持つ輝きは何ら損なわれる事無く、しかし、その場に居合わせた人々の受け取り方はまた今や20年前とは違ったものになっているだろう。なんだかそれも楽しみだわ。