無意識日記々

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成功のジレンマ03

歌詞はどの国の言葉でもいい、という提案は、光が曲作りに於いて先に曲を書き、歌入れのギリギリまで作詞に取り組むスタイルだからだ。大抵トラックメイキングは歌入れより先に行うので、作編曲が先に済んでないといけないという事情もあるにせよ、とまれ結果的にそういう作詞作曲術に収束しているのは間違いないと思われる。

しかしそうなってくると、そもそも光にとっての成功、或いは目指すものとは何なのかという所にまで立ち返って考える必要が出てくる。日本語で歌って日本人にリーチしたいのか、英語で歌って米国人にリーチしたいのか、或いは他のどこか特定の国、例えば英国なんかで受け容れられたいのか、そもそも国なんていう枷を取り払ってあらゆる人に届けたいのか。

EXODUSのオープニングで、光はこう歌っている。『越えたいのはジャンルとジャンルの間の壁なんかじゃなくって、あなたと私の間なの』と。つまり、集団と集団、クラスタクラスタの橋渡しやら仲介やらをしたり、新しいジャンルを作ったりといった事には興味がなく、直接ダイレクトで、個と個の間を繋げたいという願いである。

こういう考え方自体、UtaDA、或いはEXODUSというアルバムに特有の、とまではいかなくともその状況が手助けとなって顕在化したものだという捉え方も出来る。宇多田ヒカルとしてアルバムを出していた時は、若干異なった在り方だったのでは、という事だ。

そもそも、現状では、日本語で歌うという選択自体がリスナーを特定する。非日本語圏のリスナーを排除とまではいかなくとも置いてき堀にする感じは否めない。熱心なファンは何語だろうがついていくが、日本ですら光が英国で歌っている歌は英語だからという時点で忌避される風潮がある。それの逆が、日本語で歌う事によって全世界規模で起こるのだ。それが"現状"である。

その現状を打破する(なんか打破されるものって他に何かあったかな)為には、まずは作曲を、というのが前回の話であった。ここらへんのバランスが難しい。国やジャンルにとらわれず、兎に角ひとりでも多くの人々にリーチをとなってくるとEXODUSのように"洋楽として"英語で歌う必要が出てくるだろう。その"意志"に抗ってまで日本語で歌詞をつけてそれをグローバルに展開させるというのは異様に敷居が高い。"Crossover-Interlude Concept"は、現状ではまず日本語を拒否するのである。

つまり、"成功"の2文字を自らの意志に照らし合わせて考えてみた場合でも、市場でのものと考えてみた場合でも、日本語による成功のジレンマは必ずついてまわるのである。厄介だなぁもう。次回に続く。