無意識日記々

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※珍しく光の名が出てきません。

音楽の作り手側というのは音楽に集中しているので、視覚入力というのは時に煩わしくすらある。だからPopsを作るのは難しい。ポピュラー音楽のリスナーというのは基本受け身の後ろ体重だから、こちらから飛び込んでいかないと相手にしてくれない。スピーカーやヘッドフォンの前で身じろぎもせず音と向き合っているような態度で聴いて貰える訳ではないのだから、ポピュラー音楽のプロデューサーというのはそのスタンスの切り替えが出来なくてはならない。丹精込めて作り込んだサウンドを車を運転しながらとか飯でも食いながらみたいな気軽さで接してみてそれで初めて判断がつく。それはなかなかに難しいことだ。

例えば技術論をどれだけのアマチュアが語っているか。アニメや漫画の分析者はWebにおいてはグラデーションが実に多様で、また熱心である。これが音楽になると、作り手側のスタンスとファンのスタンスに真っ二つといっていい程分かれる。技術論は同業者向けであり広がりより深みを追求しているようにみえる。洋楽となるとレビュー文化がある程度普及している為少しだけグラデーションがあるが、邦楽となるとお手本がロキノンなんとかとかになる為、なんだかあんな感じである。

単純に、音楽について言葉
で語るにはハードルが幾つかあるのだ。音を視覚化するには楽譜や波形にせざるを得ず既にそれだけで敷居が高い。これがアニメや漫画なら、Webでは画像を載せてしまえば解説が出来る。その違いはとても大きい。

音楽に視覚入力を添付して生まれる可能性というのは、その敷居の高さを下げる事にある。人が音楽について語る時にすぐにそれを素材にして語れる"見た目"。前回ちらっと例に出した歌詞を表示するというのはその一例だ。そうする事によって人は音楽に集中し、そこに構造がある事を理解するようになり、それについて語るようになる。Web時代は双方向性は当たり前であって、アニメを放送した時にそれが"実況向け"かどうかは非常に要点になっている。どんな短い言葉でもそれについて何か発信したくなるか否か。そこを音楽が主体的に突くには、そのまま言葉に直結するような視覚入力が必要だ。その点において従来のプロモーションビデオの手法は雄弁に過ぎる。映像作品としてのカラーが強すぎて、なかなか音楽が主役になりにくい、或いは単に分離している。ひとことでいえば意味のわからないものが多い。それとはまた別の話なのだ。

しかし、これだけ偉そうなことを書いておきながら、「ではどうすればいいか」については全く思いつかない。まだガジェットが足りないのか、リスナーについて思い違いをしているのか。正確な所はわからないが、いずれにせよダウンロードを諸悪の根源に仕立てあげる前にやる事があるだろう、というのは強く感じるのだった。