無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

目と耳と

桜流しでは、サウンド構造にも表れているように「目線・視線」の動きが重要である。

『見ていたあなたはとてもきれいだった』の一行には、花が散るのを見ていた"あなた"の視線と、その横顔を見る"私"の目線の両方が含まれている。見る人を見る人。この思い出の中の情景から今という時点の仮想の中で『もし今の私を見れたなら』という"あなた"から"私"への視線に推移する。"私"から"あなた"への目線は変わらずそのままだから、この視線と目線は交錯する。仮想の中で。

翻って次のパートでは、視線と目線から「音」に話が移る。『今日も響く健やかな産声を聴けたなら』に『私たちの続きの足音』。ここでは"私"が鑑賞の対象とする(『とてもきれいだった』)相手の存在もないし、目と目を合わせる相手の存在はない。既述の通り、疑問を投げかける(『見れたならどう思うでしょう』)最初のパートと、確信をもつ(『聴けたならきっと喜ぶでしょう』)二番目のパートという組み合わせである。視線と目線が交錯する視覚の物語はこちらが見る者がこちらを見る者でもあり、自己と他者の物語になる。即ち、相手の心がわからないから「他者」なのだ。他方、聴覚の物語は心を一つにして同じ気持ちになろうとする共感の物語。私とあなたは相対する存在というより同じ場所に立つひとつの存在となる。その為聴覚の物語は確信を以て届けられる。ここらへんの対比が巧い。疑問と確信を、視覚と聴覚の性質と呼応させているのだ。

そして、次のパートで『もう二度と会えない』と視覚("会う")、及び『まだ何も伝えてない』と聴覚("伝える")の両方を組み合わせてくる。ここが何ともドラマティックだ。実に練られた歌詞構成である。