無意識日記々

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ちの!きの!しお!

また前段で触れ忘れてる所があった。やれやれ。

『きけたなら きっと よろこぶ で しょう
 わたしたちの つづきの あしおと』

この部分のそれぞれの文節の語尾に注目。
「きけたなら」は「ら」、「きっと」は「と」、そして次は切り方が難しいのだが歌い方をよく聴けば「よろこぶ〜で〜しょ〜」になっているのが分かる。印象に残るのは各々「〜」の部分だから語尾らしいアクセントで聞き取られるのはつまり「ぶ」「で」「しょ」になる。それぞれの語尾を並べると「ら」「と」「ぶ」「で」「しょ」になる。この一節では語尾の母音がそれぞれア段の音、オ段の音、ウ段の音、エ段の音、そしてまたオ段の音、とバラバラになっているのである。イ段の音は語尾に現れないが、その代わりに「きけたなら」の「き」と「きっと」の「き」に語のアタマのアクセントとして登場している。

さて、次の行。
「わたしたちの つづきの あしおと」
それぞれ語尾は「わたしたちの」の「の」、「つづきの」の「の」、「あしおと」の「と」と見事にオ段の音で揃えてある。これは、前段の一節の最後の語尾がオ段である事を引き継ぐものだ。そして、そちらで語尾の母音がバラバラだったのとコントラストがハッキリ出るようにこのオ段揃えの語尾は仕組まれている。イメージとしては、「こう行って、ああ行って、そう行って、こう行ってこう行ってこう!」みたいな流れを作りたかった訳だ。語尾の母音の組み合わせとメロディーの起伏の組み合わせで言葉の印象を強くする技術である。


もうひとつここで付け加え忘れてた点といえば。

「わたしたちの つづきの あしおと」

の部分、今度は語尾を2文字ずつ取り上げてみる。「わたしたちの」の「ちの」、「つづきの」の「きの」、そして最後は反則気味だが3文字とってきて「しおと」。

「ちの」「きの」「しお/と」
並べればわかりやすいが、全て「イ段の音−オ段の音」の組み合わせになっている。最後の「あしおと」は、前段の「でしょう」とも韻を踏んでいる事も想起。その文の中での韻の引き継ぎと、前文からの韻を踏まえるのと、両方を担っているのだ。

ここの「あしおと」の箇所のヒカルの符割りと歌い方は非常に特徴的だが、今述べた2つの韻をアタマに入れて聴いてみると、その"両担い"、韻の両立を目論んでいる事が仄かに伝わる筈だ。歌というのは、斯様に語の押韻とメロディー、そしてそれらの連関を成立させる歌唱法によって形成されている。これだけ匠の技を駆使した上で、歌詞は意味のある文章を綴っている。意味があるだけでなく感動的なストーリーまで綴ってしまうこの桜流しという歌は、ヒカルだからこそ創り得た神なる逸品といえるだろう。