無意識日記々

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"今"

うぅむ、物凄く掻い摘んだつもりだったのに前後編になってしまった。サバスの話なんてするもんじゃないな。いつまで経っても終わらない。

ポイントだけ要約すれば、70年代の超大物が大体当時のメンバーで当時の曲を演奏しに初めて日本にやってきたけどいざ演奏してみると2013年現在の曲がいちばんしっくり響いた、という話だ。

何が言いたいかというと、オリジナルな、独自性の極めて高い、且つ影響力の大きなアーティスト/ミュージシャンは、如何に懐メロ大会を催そうとしても"今"の創造性を裏切る事が出来ないのではないか。

特に、BLACK SABBATHの場合はメンバーのジャム・セッションから楽曲が生まれてくるタイプのバンドであり、コンポーザーがそのままプレイヤーな為、演奏面にどうしてもクリエイターとしての側面が出てしまう。故に2013年の演奏は2013年の創造性を反映したものとなる。

本来、普通なら作曲家というのは何年も何曲も創造しているうちに才能が枯渇していくものだ。たとえそうなっても、過去の遺産を運用して晩年を過ごしていけばいいのだから何も悪い事はないのだが、悪い事に、"超一流の"ミュージシャンたちは、そこに居るだけで創造性に突き動かされてしまう。巨万の富を築き、毎年毎月バックカタログからの莫大な著作権収入を寝てても得られるようになっていても、いつの間にか楽器を手に取り新しい音を生み出しツアーに出てしまう。超一流ともなると音楽に呪われてしまうと言っていい。もう老齢なんだから過去のヒット曲でも演奏して世界中のファンを喜ばせてやろう、と考えていても出てくるのは"今の"音。故に60歳になっても70歳になっても"止まらない"のだ。


宇多田光はどうなのだろうか。居たら創る人なのだろうか。つまり、私は60歳或いは64歳になるまで歌っていたくなんかない、という駄々を「とても甘い」と感じる訳だ。運命はそんな生易しいものではない。彼女がもし真のオリジナル、超一流のクリエイターであるならば、歌う度に新しい何かを生み出してしまう事だろう。そして、歌わずに居るなんて出来なくなっているかもしれない。理由に囲い込まれるのだ。

ここらへんがお母さんと違うところだ。藤圭子は卓越した歌い手であったがものづくりの側に居たかというとそんなでもないようだ。歌手として舞台に立つ事から身を引くのも、ある程度は自由に出来てきたのではないか。

しかし、光は「生み出す者」である。何かを始めたら何かが新しい、そんな人なのだ。


そこで気になる事がある。ヒカルの場合、コンサートの選曲はファンの要望に出来る限り応えるように為される。よくミュージシャン(気取り?)が「いつまでも同じ事ばっかりやってる訳にはいかないさっ」と言い放って珍妙な選曲や新曲で聴衆の不興を買う事があるが、ヒカルはそれの正反対である。ニーズに率直に応えようとする姿勢は真にプロフェッショナルで、私はそんなヒカルのアティテュードが大好きである。いつまでもAutomaticとFirst Loveを歌っていって欲しい。

しかし一方で、"今のヒカル"を表現する事も忘れないでもらいたい。それは、成長や変化、或いは進化や退化を素直にその時々々々出していく事だ。やってるうちに、どうも"今の"気分にAutomaticはそぐわない、なんていう時期も出てくるかもしれない。そういう時には無理に歌わず時を待つ、或いは全く新しいアレンジにチャレンジしてみる、といった事が重要だが、ヒカルの場合は"お客さんが最も喜ぶ姿で"と考えて選曲や編曲を行うだろう。その時の"今"のヒカルの創造性を犠牲にしてでも。

それが、何とも歯痒い、というか不安になる。"今"の創造性の発露はまさしく"自然"そのものであって、それに抗うのは大きな犠牲や負担を招く筈だ。そこをどれだけ"自由に"為せるか。もし仮に光が"超一流"のオリジネイターであるというのなら、創造性は音楽家をどこに連れて行くかはわからない。まさにまさに"行き先不明の暴走トレイン"である。

それを楽しむ為にも、我々ファンは色々と考えなければならない。人の趣味なんてその人の勝手、First Loveがいちばんでそれ以降は興味ない、と言うんならそれでいい。作曲者としては、1曲でもそう思ってもらえる楽曲を提供できた事を誇りに思うだろう。だが今話しているのはそうではなくて、「ヒカルちゃんには元気で幸せに生きていってもらいたい」と思っているファンに向けて、である。もし仮にあなたがそう毎日思って過ごしているなら、常に新曲や"今"のパフォーマンスと向き合い、ナマの光の創造性に付き合ってあげる事。懐古趣味に走らず、過去の遺産に縋らず、常に"今"の光の目を見て耳を澄ます事。それが大切になってくるのである。うん。