無意識日記々

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後ろに目ぇないもん!

ステレオと"3D"を比較する時に最も忘れてはならないのは、我々が聴覚と視覚によって何をしているのか、という点だ。

今。議題に上っているのは「作品鑑賞」の話なのである。ここが肝心だ。何が「作品」として提示されているか。ここをまずはっきりさせる必要がある。非常にシンプルにそれは音楽と映画である。映画といってもTVドラマでもアニメでもよいんだが呼称としておさまりがいいから便宜上そう呼ぼう。

基本に立ち返る。聴覚と視覚。情報入力装置としての特徴はそれぞれどう違うか。

聴覚を司る「耳」は、我々人の場合頭部の左右に配置されている。回転座標でいえば180°反対側についている。一方、視覚を司る「目」は顔面前方に2つ左右に並んでついている。

耳は、左右それぞれの耳が180°(本来なら立体角で語るべき所だけどもね)の広角を担当できる為、基本的に周囲総ての音を拾える。言わば聴覚には"死角"がないのである。一方視覚は、前方のある一定の角度しか見えない。どれだけ頑張っても前方180°以上は見えない。後方180°はまるごと"死角"である。聴覚に死角なし視覚に死角あり、だ。瓜に爪あり爪に爪なしみたいだな。

後方の情報を得る為には、人は首を回さなければならない(他の生物―例えば哺乳動物でも馬などは左右に目がついている為視野が人間とはかなり異なる。昆虫類の複眼なと言い出せばキリがない)。耳にそんな事は必要ない。後ろを向いたら左右と前後が逆転した音が聞こえるだけである。

究極的には、適切なヘッドフォンを用いる事で人はあらゆる聴覚体験を"リアリティ100%"で味わう事が可能だ。(実際はそこに加えて外耳の形状に依存する情報処理も行われている為そう簡単には問屋が卸さないのだが)。つまり、音楽はサウンド・プロダクションを研ぎ澄ませれば研ぎ澄ませる程"リアリティ"の再現度、或いは表現度が高まっていく。音は音。何がどう鳴っていようが鼓膜に届ける時に適切な波形になっていればよい。

視覚はこうはいかない。どれだけ工夫を凝らしても、それが映画である限り空間的にはスクリーンという"枠"の外には出られないし、時間的にはカット割りは自由にならない。つまり受け手はやる事が制限される。リアリティを感じようとしても。

プラネタリウムのようなスクリーンを想像し、そこで"3D"映像を流せばよいのではないか、と閃く向きも在るだろう。しかし、そんな所に放り込まれたとして、我々はその一瞬々々、天球のどこをみればいいのかわからない。スクリーンが平面なのは、それは制限なのではないのである。我々受け手が「其処だけ観てればいいですよ」と言ってもらう"赦し"の為にあの「枠」は存在するのだ。視覚は、そうやって固定されねばならない。従って「映像作品」とは本質的に&不可避的に2Dにならざるを得ない。"飛び出す絵本"の21世紀バージョンである"3D"映画とは、結局の所どこまでいっても絵本でしかないのである。それが絵本として読まれようと思っている限り。


…あれ?こんな所で俺週と月跨ぐの? 大丈夫かいな…。