無意識日記々

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流行った人が流行ってる音楽を

宇多田ヒカルは98年当時の"和製R&Bブーム"の中で売れた、という言い方もあるが、今まで何度も繰り返し指摘してきた通り、ここ日本では"R&B"という言葉より"宇多田ヒカル"の方が遥かに有名である。つまり、「R&Bってどういう音楽?」「宇多田みたいなヤツ」「ヘー」という会話は成立しても「宇多田の音楽ってどんなの?」という質問に対して「R&B」と答えても殆どの場合質問者は納得しない。R&Bというのが何を意味するか知ってて宇多田の曲知らないなんてよほどの偏屈なマニアくらいなもんだろう。

そこまで突出した「個」は結局「孤高」でしかなく、そこから何も広がらなかった。ヒカルに憧れて歌手を目指した人は沢山出てきただろうし、それは非常に意義深いものだけれど、ヒカルの"音楽にインスパイアされて"出てきたミュージシャンはあんまり見えない。それ位に属人的要素が強い、のだ。宇多田ヒカルは流行ったが、ヒカルの音楽・音楽性は流行らなかった・流行れなかった。例えばTHE BLUE HEARTS以降の日本のPUNKが総て彼らを無視する訳にはいかなくなったような状況とは全く対照的である。

これからもずっとこう、だろう。ケイト・ブッシュビョークにフォロワーが居ないように、ヒカルもまた今ココで孤高の存在として歴史に名を刻みつつある。

だが、Utadaの2ndアルバム「This Is The One」は若干違う。メインストリームポップを標榜しただけあって、あの音楽性なら"追随"が可能だ。まぁ、フォロワーが出来たとしても日本人ではない気がするが。ああいう"無難な"音楽性を、今のHikaruがどう捉えているか訊いてみたいものだ。何しろ、もう4年も前のアルバムだからね。


そこで次に注目したいのは、Kuma Power Hour で、Hikaruによる"英語で歌われた曲"が掛かった時に、どんな響きになるか、番組の中でどんな位置付けがなされるかという点だ。熊淡弐において桜流しが流された為、あの洋楽中心の番組で日本語の、ヒカルの歌が流れた時のインパクトを体感する事が出来た。女性の声特集の中で、あの時間帯、あの曲順で自分の日本語曲を流す。次がクラシックのインスト曲であった事も色々と妄想を掻き立てる。

これが、自身の英語曲だったらどうなるだろうという話である。踏み込んでいえば、自分の音楽を、自分の好きな音楽の中でHikaruがどう位置付けているかを、ラジオの構成から読み取る事が出来る訳だ。仮にEXODUSやTiTOからの曲が掛かったとしても、その扱いはそれぞれまるで別のものになる気がする。まだ番組が始まったばかりな為、どういった文脈で紹介され得るかについて具体的なシミュレートが困難な点は歯痒いけれど、Hikaruの英語曲に魅力を感じる人にとっては非常な"楽しみ"になる事は間違いない。もし仮に番組継続中にUtada In The Flesh 2010 footageが発売されるような事があったら、この夢想は現実のものとなるかもしれない。いやはや、ワクワクするでありますな。ハハ。