無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

改めて噛み締めて前に進む為の話

少し落ち着いてきたかな。もしかしたら私の事を「ヒカルはまだ悲しみに沈んでいるだろうに薄情な」と捉えている人も居るかもしれない。居ない? いやどっちでもいいんだ。居ても不思議じゃないだろうな、と思っただけなので。無意識日記が焦っているというか、かなり"攻め"の姿勢なので。最近。

なので、ちゃんと振り返っておこう。ちゃんと噛み締めておこう。光がどれだけ悲しんだか。どれだけ落ち込んだか。

我々が宇多田ヒカルを自殺で喪ったと想像してくれ。それよりもずっとずっと悲しい出来事が、光には起こったのだ。

恐らく、読者の殆ど全員がぞっとするような感覚に襲われたかと思う。中には、純子さんの訃報を耳にして、「もし自分の母親が自殺したら」と想像してみた人も居るのではないか。それも勿論恐ろしい想像だが、中には、物心ついて以降母親に会った事がない、幼い頃に死別した、という人も居るだろうし、或いはもう年齢を重ねて亡くなっているという方、両親が離婚して母親と絶縁状態、等々々々で、母親の自殺と言われてもピンとこない方もいらっしゃったかもしれない。しかし"この"空想は(2回書くのはもうイヤだ俺は)、ここの読者なら間違い無く響くだろう。中にはヒカルやUtadaのファンでもないのにここを読みに来てくれてる人も居るみたいだけど、あのう、私が言うのも何なんですが、もっと自分の好きなものやことやひとに時間を割きましょうよ。気に入らない何かに時間を割けるほど人生長くないですよ。"アンチ宇多田"ならファンの一種(ただ素直になれないだけの人種)なのでいいんですが。

気を取り直して。身の毛もよだつ戦慄の感覚の何倍もの衝撃が光を襲った。その事実だけは忘れてはいけない。忘れない。トラウマというレベルではなく、これによって心が既に変形してしまったと捉えるべきかもしれない。この悲しみを癒やすとか乗り越えるとか、はたまた忘れるとか、色んな対処法があるだろうけれど、私は、ひたすらこれを事実、起こってしまって修正できない出来事だと認識して生きていくしかないと思う。後悔や自責の念が浮かぶのを止める事は出来ない。勿論周りは「貴方には何の責任もないんだよ」と声をかけてあげればいいし光は光で「ありがとう」と返しておけばいいが、もう心は変形してしまったのだから、人生の一部として、時には背負って、時には目を背けて、時には放り出して、そしてまた背負い直すような紆余曲折を、覚悟しなくてはならない。一言でいえば、「ふっきれる事はない」、のだ多分。それが出来るには光は純子さんの事を愛しすぎた。いや勿論、あたしとしてはいちはやく元気を取り戻して飲んだくれてバカ騒ぎする位になって欲しい
と思うし、遅かれ早かれそういう日が来る、来て欲しいと思うけれど、常にどこかで心にひっかかり続けるんじゃないかと。それを無理に剥ぎ取るのはよくないんじゃないかと。効くのは時間による緩やかな緩やかな治癒だけじゃないか。そしてそのスピードは、生きてる間中ずっとずっと遅くなり続けていく。


だが、憂鬱ではない。母親を自殺で喪うという結果は、明らかな"失敗"である。一旦の結末としては。これからどう生きようが、この"失敗"は成功には一切転化しない。この死は美化できないだろう。ただこの事実の上に立って、そこからどう生きていくかが問題なのである。今の光は強い。力強く、生きていける筈である。純子さんへの純粋な愛が、彼女の死によって更に強まったと思うし、それが新しい生命力にならない筈がない。月も9月に変わったし、新学期という人も多かろう。なのであらためて、純子さんの死をもう1度噛み締めておきたかったのです。秋が来る。