無意識日記々

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身も蓋もないアッサリとした理由

日本語詞よりも英語詞の方が自己言及的な内容が多い理由。その最初のひとつは結構呆気ない理由である。日本語で歌う宇多田ヒカルは有名人だったが、英語で歌うUtadaは無名だった。ただそれだけの事だ。

1stアルバムを除き、宇多田ヒカルは聴く人全員が自分の事を、少なくとも顔と名前くらいは知っていると(恐らく無意識のうちに)仮定して歌詞を書いていた筈だ。そんなだから、別に自分の事を外にアピールする必要はなかった。寧ろ、突き刺さり続ける外側からの視線に呼応して「こんなに有名になってしまった私って何?」という形状の思考が支配的であったのではないか。下手な事を歌うと、「それって自分の事?」と勘ぐられる危険性があった。それを乗りこなして欺くような位(特技:惑わす事)に歌詞を巧んでいった、という風にもみる事ができよう。

しかし英語詞で歌う歌を届けようという人たちは、多くがHikaruの事を知らない。ならば、まずは私の事を知って貰おうと自己紹介が多くなる。私はこんな人ですよ、私がする事はこれですよといった内容。それは、Crossover InterludeやAnimatoのように一人称で直接的に歌われるものから、Easy BreezyやThe Workoutのように、歌の中の人物に語らせて比喩や皮肉を交えながら歌ったものまで、広いスペクトルがあるが、この、"お互いの顔が見えていない"状態における歌詞作りというのは、Utadaの1stと2ndに特有なものである。

では、と考える。理由が日本語や英語の言語的特性ではなく、ただ単にその国で有名か否かの違いでしかないのであれば、日本語で自己言及的な歌詞を書く論理的可能性について言及したくなる。が、今更この国でこれから「宇多田ヒカルを知らない人たち」が多数派になってリスナー層を形成するケースは、ほぼ有り得ない。20年位音沙汰がなくっても、第一声は「覚えていらっしゃいますでしょうか、若い人はご存知ないやもしれませんわね」であって、「はじめまして」では決してない。宇多田ヒカルは、有名になりすぎたのだ。恐らく、今後Hikaruが日本語詞で"Automatic Part2"のような歌を書く事はないだろう…

…あ、ひとつだけあるか。遠い将来に、世界のどこかで、日本語以外に、日本語を公用語とする国が誕生したとしたら、その国でデビューする際に「私の名前は宇多田ヒカルです」的な歌を歌えるかもしれない。…まぁないわな。うちらが心配しなきゃいけないのは寧ろ、日本という国がなくなってしまう可能性の方だったり…それもまぁ、すぐにはないだろうけれど。


さて、では、英語詞の方が自己言及的歌詞が多い理由として、他には何か考えられるだろうか。知名度以外で。…うーん、すぐにはまとまらないな。また整理できたらその時に書く事にするよ、うん。