無意識日記々

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世界に広がった友達の輪の中で

昨日長寿番組「笑っていいとも」が終了した。タモリの最後の挨拶がWeb記事で全文文字起こしされている。彼が初期の自分を「生意気で不遜で世の中舐めてた」と言うのをきいて、Hikki's SWEET&SOURのヒカルのトークを思い出していた。不遜で生意気な事では全く負けていないな、と。そして、年月が過ぎ、ビッグになった2人はこちらが恐縮するほど謙虚で控えめとすらいえる程の態度をとるようになった。

環境というのは斯様に人の立ち居振る舞いを変える。何故だか「今夜は最高」の頃からタモリを知っている私だが、彼が不遜から謙虚に態度を変えてきているからといって、タレントとしての資質や才能や方向性が変化したとは受け取っていない。ただ単に、彼の才能に見合った地位なり知名度なり収入なり活躍の場なりを得て、自分自身を殊更アピールしたり、受け入れようとしてくれている世の中に対して片意地張る必要がなくなっただけなのだ。変わったのは彼ではなく、彼の才能を漸く見いだした(向こうからすりゃ「バカにみつかった((c)有吉)」) 我々の方である。

ヒカルの方も同様で、甘酔の頃はまだ世の中がヒカルの才能を見いだし始める直前だった。彼女は、赤坂BLITZでのコンベンションの時から、周囲に自分の才能を知らしめる必要があり、従って不遜だ生意気だと言われる位にデカい態度をとっていた。それが数ヶ月後には過剰ともいえる狂騒を呼ぶ。

つまり、初期にみせるヒカルの「自信満々ぶり」は、ただそうする事が必要、必然だっただけなのだ。一般化してしまえば、人の性格のうち、自信や不安、不遜や謙虚といった要素は、環境との相互作用の中で決まっていくものであり、その人にとって本質的、或いは普遍的な要素とはなりにくい、という事だ。ヒカルも、タモリと同じように、彼女の魅力の核は、甘酔の頃から何も変わっていない。熊淡を楽しみにしている時も甘酔を楽しみに待っている時も、私の中には同じ部分がちゃんとある。彼女の事をタメ口云々のみで語る人達は、要するにヒカルの発言の中身をに耳を傾けていなかった、という事だ。


余談。Webでビートたけしタモリに対する"卒業証書"の全文を聴かせて貰ったのだが、この人もツービートの頃から、笑いの方向性は何も変わっていないなぁ。態度もまるっきり同じ…の筈なんだけど、周りに彼に苦言を呈する"ビッグな"先輩たちが居ないと、やりがいは薄れてるかもしれないなぁ、とは思った。ヒカルにも、今はもうそういう人が居ない…いやそれは昔からか。ふざけた時に叱ってくれる人が居なくなるというのも、一抹に寂しく、そして感慨深い。

それにしても、たけしのブラック・ジョークのほぼ総てのネタを知っていた私は(田中康夫のエピソード実話ですよあれ)、やっぱり根っからのテレビっ子だったのだなぁと実感してしまった。それがもう、あんまりテレビを観なくなっているというのは、いいのやら悪いのやら…。