無意識日記々

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人と音楽と言葉

前回触れたように、「宇多田ヒカルのうた」アルバムはヒカルの名前を再確認してもらうと共に、参加アーティストが名前を知って貰う絶好の機会でもある。特に若手アーティストにとっては大きなチャレンジだ。

宣伝の口ぶりからすれば、大物アーティストから若手まで取り揃えている感じだが、特に若手となるとUMG内、更にはEMI内所属の割合が大きくなるだろう。いや、そういうのにこだわりはないかもしれないが。或いは、他社の大物を引っ張ってくるにあたって「ではうちの新人も起用してくれませんかねぇ」という提案もあったりなかったりするかもしれない。いずれにしても、もし出来がよろしくなければヒカルがはじいてくれるだろうから、参加の経緯はどうあれ中身を心配する必要はない。

しかし、他人の曲を扱ってシンガーソングライターが自らの存在感をアピールするのはなかなかに難しい。これがバンドであれば、そのサウンドのカラーというものがあるので「あのバンドは誰の曲をやっても自分たちのサウンドにしちゃうんだな」と言わせる事が出来るが、ソロアーティストであるシンガーソングライターのアレンジの手札はそんなに固定されたものではない。実際、ヒカルのサウンドにもトレードマークと呼べるものはない。

そこをどう捉えるか、である。それがこの作品のテーマと言ってもいい。宇多田ヒカルのうたをカバーするにあたって、シンガーソングライターとしての自分は何をどうアピールするのか。作曲者としてのアイデンティティか、歌手としてのカラーか、それとも宇多田ファンとしての愛着か。個々のアーティストたちの音楽上の個性のみならず、アプローチの方法論にも、そこらへんの距離感みたいなものが反映されよう。できれば、ブックレットに各アーティストからの詳細なコメントがあればいいのだが、どうだろうな。



一方、「宇多田ヒカルのうた」を作った張本人は『最近言葉の無い音楽の方が心地よ』いんだそうな。やれやれ。私もインスト好きだからその気持ちはよぉくわかるつもりだが、これはそんなにいい傾向ともいえない。言葉に対する煩わしさを感じ、器楽のもつ純粋な美しさに魅了される。一言でいえば「あんまり他人に会いたくないでござる」モードなのかもしれない。そうとも限らないけれど。

とはいうものの、パブロ・カザルスのテイクを選んでいたのはどうなんだろうか。彼の演奏は透明感と深度を両立させる奇跡的な音色が主軸にあって流石に20世紀を代表する演奏家のひとりだなと思わせるが、ここまで彼ならではのサウンドが出せてしまうと、器楽演奏なのに言葉以上に雄弁で、彼の個性や人間性が前面に出ている、ともとれる。所詮は音楽なんて最初は誰かの書いたものなのだから、どこかにその人の烙印は押されているのだが。

まとめると、人に会うのは面倒だし疲れるけれど人が嫌いな訳でもない、といったところか。なんというか、いつも通りかもしれない。ヒカルのつぶやきがあると、内容如何に関わらず少し安心安堵してしまってますわ。