無意識日記々

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カウンターカバーアルバム案&いつもの話

カバーには色々なパターンがある。一組のアーティストが沢山の他のアーティストをカバーするのが所謂カバーアルバムだ。中には、一組のアーティストが別の一組のアーティストの曲をひたすらカバーするアルバムもあり、それはそれで面白いにしても、少数派である事は否めない。

一方、沢山のアーティストが一組のアーティストの曲を挙って取り上げるのがトリビュートアルバム、今回でいうソングカバーアルバムだ。

この対称性を鑑みると、今後最も大きなサプライズがあるとすれば、ヒカルが、この「宇多田ヒカルのうた」アルバムに参加したアーティストたちのオリジナル曲をカバーし尽くしたカバーアルバムを発表する事だ。世にも珍しいアンサーソングならねアンサー・アルバム、いやレスポンス・アルバムとかカウンター・アルバムと言った方がいいかな? もしそんな事が実現すれば非常に話題になるだろう。一大プロジェクトである。

しかし、このアイデアは実現しないだろう。そして、その理由は公に語られる事は無いだろうから私がここで言ってしまおう。残念ながら、ヒカルがアルバムとしてリリース出来るだけの曲の質と量が足りない。ヒカルが自分の名義で発表してもよいと言えるだけのクォリティーに届かない。そういう結果が見えている。

かなり過激な事を言っている。日本でプロとしてやっていってるアーティストを10組なり12組なり何組かを集めて、彼らの代表曲、いちばんの名曲をかき集めても、「宇多田ヒカルのうた」アルバムに収録されている楽曲群のクォリティーには足りない。一流が寄って集っても宇多田ヒカルという超々一流のソングライター1人の力にはかなわないのである。断言してしまった。

そこをクリアー出来るようなラインナップだったら凄いんだが、そんな事をしたら絶対に制作費は赤字になろう。表向きは、このアイデアについて、「ヒカルの歌唱法には合わない曲を書くミュージシャンばかりだから」という100%本当の理由を言うだろう。それは嘘ではないし、だから今僕が言っている事は蛇足も蛇足なのだが、それ位にヒカルのソングライターとしての能力は突出しているといえる。2年前には桜流しのレベルにまで到達していたのだから。売上や知名度は別にして、日本人だからとか女性だからとか若いからといった注釈なしで、LegendaryとかHistoricalといった形容詞を伴う存在になりつつある。本来ならば、歴史の教科書に掲載されるべき作曲家なのだ。

毎度こんな事を言ってても負け惜しみにしかならないのが悔しい。わかりやすい、ビルボード1位とかグラミー受賞とかあればいいんだけど。ビヨンセみたいに一年で100憶稼ぎましたでもいいよ。でも、そういった華やかで栄光に満ちた道をヒカルが望んでいるかというと、ねぇ。わかんない。

ぼくはくまを喜々として歌う人である。いや、ビヨンセもちょっとそういうとこあるか。寧ろ、もっとシンプルに、体力なのかな〜。たくさん働ける身体作り。人間活動にいちばん期待すべきはこれだったのかもしれない。

一方で、この間小室哲哉の話で触れたように、メロディーを生み出す為には心の畑を何年もかけて耕していかないといけないのかもしれない。バリバリ働いて稼いで、というのはアートと関係無い話である。

で、いつもの葛藤の話に戻るのだ。アートに徹するなら10年でも何でも時が満ちるのを待てばよい。しかし、Popular Musicを標榜するなら、コンスタントに作品をリリースする事自体が要求されるのだから、今言った"体力"が必要になってくる。このジレンマがいわば居心地の悪さを生み、ヒカルの立ち位置をわかりにくくしている。Hikaruは音楽性がノージャンルやジャンルレスだから孤立・独特の場所に居るのではない。活動スタンスが明確でないから捉えどころが無いのである。歌の中身ではなく、期待と安心のしづらさが不安定な(シーンの中での)存在感を生んでいるのだ。



そうは言ってる私にとっては彼女は宇宙の中心みたいなもんなので別に不安定でもなんでもないんですけどね。本音は「Hikaruの好きにすりゃあいいじゃない。」一択なのですよ。