無意識日記々

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「ジレンマ」

AIの"FINAL DISTANCE"は「ジレンマ」である。愛情の深さはエネルギーであり時には壁ともなり得る。

ヒカルの曲の中で最もカバーが難しい楽曲のひとつがFINAL DISTANCEである事は言うまでもな…それは言い過ぎか。でも、間違いないだろう。

この曲がどういう楽曲であったかというと、当時…2001年だから18歳か、既に図抜けた天才だった宇多田ヒカルがその時の実力以上のものを発揮した、いわば「天才のまぐれあたり」みたいな作品だったのだ。「柵越えなんていつでも出来る」と宣うホームランバッターがあんまりにもスイートスポットに当たりすぎて場外ホームランを打っちゃったみたいなな。なんでこないだから喩えが野球なんだ君。

そんなだもんだから、この曲はもう他の曲と較べても"生命力"としてのエネルギーが半端ではない事になっている。その"引き"の強さがHikkiに秘められていた力を引き出したともいえる。

その出来映えはまるで大聖堂のようだ。私は"The Cathedral"と呼んでいる。日本語だと大伽藍だな。他にも神殿とか言い方はあるだろうが、壮麗な建築物のような印象を漏れなく与えるのは、総ての音が役割をもって機能しているからだ。柱を一本抜き取れば建物が壊れてしまうように、この曲のどの部分の音を変えてもマイナスにしかならない。完璧という言葉はこの曲にこそ相応しい。

楽器隊にも歌にもコーラスにもこれでもかという程無駄がなく、且つ最高に機能しているので、カバーをしようとすると完コピしかできないのだ。勿論、それならと歌メロだけ取り出して、メインフレーズだけを使ってまるで違う曲に仕上げてしまおう、という風に考える事も出来るが、それをしてしまうとそれは"DISTANCE"の方のカバーにしかならない。"FINAL DISTANCE"のカバーではないのである。


AIも勿論それは百も承知だったようで、今回はリスペクトとラヴの溢れた、原曲を尊重したアレンジと歌を聴かせてくれている。その実直で素直な感情の発露は、このアルバムにおいて「最も好印象」という点で、他の追随を許さない。ヒカルの事をこんなにも尊重してくれて、好きでいてくれてありがとう。本当に「いいヤツ」なんだと思う、彼女は。男だったら「ナイス・ガイ」って言われるような。関西弁で「おまえほんまにええやっちゃな〜!」って言うのがいちばん嵌るかな? そんな感じ。

しかし、だからこそ、このバージョンには「プロフェッショナルなミュージシャン」としてのAIの葛藤が、ジレンマが透けてみえる。ただの憧れではなく、対等な1人のミュージシャンとして宇多田ヒカルと向き合った時、例えば自分の持ち味は何だろう、黒人霊歌的なゴスペル調の歌唱なら彼女より上手く出来るかもしれない、ではそういった要素を取り入れてみよう―実際、彼女はそういった発声がヒカルより上手いし、着眼点はそれでよいのだが、相手が悪かった。FINAL DISTANCEのメロディーやアンサンブルを弄れば弄るほどそれは完璧なオリジナルに対する"劣化"に過ぎず、だったらオリジナルのままでやればいいじゃん、何度もそんな風に悩みながら彼女なりの矜持を封じ込めたのが今回のトラックなのだろう。凄くよくわかる。

だからといって、例えばもっとまるまるゴスペルそのものに生まれ変わらせたら、それは先程述べた通り"DISTANCEのゴスペル・アレンジ"になってしまうだろう。FINALのFINALたる所以は、「もうどこも動かせないところまで突き詰めたこと」そのものにあるのだから。文字通り、DISTANCEの"FINAL"なのである。

本当にこれはいつまでも続くジレンマだ。私もどうすればいいのか全くわからない。だからAIに対して「こうすればよかったのに」といった感情や対案は一切無いのだ。「やっぱそうなるよねぇ(苦笑)」という共感こそが私の偽らざる正直な感想だ。いやホント、どうすればよかったんだろうねぇ。「ジレンマ」。それは、FINAL DISTANCEを愛してしまったプロフェッショナル・ミュージシャンがどこまでも持ち続ける永遠の宿命なのかもしれない。