無意識日記々

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「井上陽水」

井上陽水の"SAKURAドロップス"は「井上陽水」である。もはやもう他に言いようがない。

この曲の有る無しでアルバムの性質自体が変わる。それ位に重要な、最重要なトラックだ。ここまで"カバー&リスペクト"を徹底してくれると感謝の言葉しか生まれない。あ〜りがと〜君に感謝して〜♪

このテイクが嫌いな人は即ちもともと井上陽水が嫌いか、或いは"SAKURAドロップススタジオテイク原理主義者"であるかのどちらかなのではないか。もし、例えば普段の井上陽水は好きだけれどこのカバーはイマイチ好きになれない、という人が居るなら煽り抜きに話をきいてみたい。或いは、井上陽水SAKURAドロップスを歌うというから、と既にその名前の組み合わせを見ただけで妄想がたちどころに完成してしまい、その"理想"とのギャップが生まれてしまった、という事ならあるかもしれない。うむ、それなら理解も出来る。

それをいちばん言いそうなポジションに居るのは今回の主犯格、沖田英宣ディレクターではなかろうか。彼は最初から井上陽水に対してはSAKURAドロップスを提案していたが、まさかラテンアレンジにしてくるとは思いもよらなかったという。つまり、ほんのり和風の薫り漂う日本語バラードを井上陽水が歌ったら、というかなりシンプルだがポイントを突いた妄想から話が始まっていたようだ。その結果がこの"陽気な"ラテンサウンドである。かなり驚いたのではなかろうか。

これこそが、カバーの醍醐味であろう。思いもよらなかった発想との邂逅。しかし、実際に出会ってみたらなんとも魅力的。このヴァージョンは、特に、アイデアをしっかり煮詰め切っている所が凄い。先程書いたように、「これが嫌いな人は井上陽水が嫌いなだけ」という所謂"最終段階"にまでもっていってあるというところに、井上陽水という人の宇多田ヒカルに対する誠意と尊敬と愛情を感じる。我が崇め奉る宇多田ヒカル様のうたに対して、中途半端な事だけはしたくない。大人としての責任ある態度。それが13曲中最も際立っていたからこそこの曲はオープニングナンバーに相応しい。

どのトラックが好きだ、というのは個々にあるかもしれないが、"このアルバムの責任を背負っている"という点ではこのトラックの右に出るものは居ない。井上陽水という、キャリアと実績と現在の実力を総て兼ね備えたミュージシャンでないとこれは出来ない。彼でなかったらもう桑田佳祐松任谷由実を連れてくるしかない。それ位にレベルの高い仕事をしてくれた。

大人の責任感、と書いたが、大人としての私は、本トラックをアルバムのベスト・トラックに推すだろう。こどもとしての私は、加藤ミリヤの"For You"が気に入っている。男としての私は大橋トリオの"Stay Gold"かな? いやこれは女としての私、かもしれない。こどもであった事はあるけれど女であった事はないので、自分でも何を言っているのかよくわからないんだけれども。

大人として、というのは、即ちこれが"エンターテインメント"として突き詰められている点を評価して、という事だ。何度も書いているように、このトラックはただひたすら聴いていて楽しい。そのシンプルな感情を惹起する為に、恐らく時間の足りなかった中で最大限の効率で娯楽性を高めていったように思えるのだ。

なので、井上陽水のコメントの中に"エンターテインメント"の文字があった事に大きな符丁を感じた。ヒカルの切なさに対してエンターテインメントと言い切れるだなんて、音楽家として道化化(どうけか)する事を厭わない人間でないと無理だ。"残酷"という言葉の選び方からも、彼の長年にわたるポップ・ミュージシャンとしてのアンビバレントな葛藤が伝わってくる。ヒカルにも、そういう点で共感を覚えたのであろう。トラックだけでなく、コメントの方も大人としてNo.1だ。


七面倒くさい難しい事を書きすぎた。この曲を、聴き手はそんな風に受け止めてはいけない。ふざけて井上陽水の歌い方でも真似ながら、笑顔で"SAKURAドロップス"のメロディーを、歌詞を口遊もう。それでいいのである。それがいい。大人の提供してくれた、老若男女総てを笑顔にするエンターテインメント。彼の事を好きになるチャンスでもある。これで彼のファンが増えたら私も、きっとヒカルも、大きく喜ぶに違いない。