無意識日記々

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お茶漬けおかわり

何度も同じ作品を聴き続けていると、それまで聴きながら種々の様々色々に抱いてきた色とりどりの感想がじわじわと収束して大体一言にまとまってゆく。それが私のその作品に対する端的な"評価"である。

宇多うたに関しても例外ではなく、1ヶ月以上愛聴してきての結論じみたものが浮き上がってきた。それは、「ヒカルはほんまええ曲をたくさん書いたんやなぁ」という事だ。

ソングカバーアルバムである。テーマの切り口はまさに多種多様である筈だ。宇多田ヒカルへのリスペクトとか市場での影響、歌唱スタイル、音楽ジャンル、人間同士の関係性…なんでもありである。しかし、私がいちばん地味に痛感したのは結局のところ「曲のよさ」であった。個々のカバーのアプローチの話でなく。

これは随分抽象的な話である。いろんな人の歌を聴いて「やっぱりヒカルは歌が上手いんだなぁ」という感想を持つならわかる。比較の話だ。しかし、ここで浮き上がってくるのは具体的な歌声や演奏ではなく、もっと抽象的な、いわば楽譜の上での記号としての実在である。本来のオリジナル・トラックからヒカルの声を捨象して他の人の歌声と入れ替えたアルバム。その時に入れ替わらなかった何かがこのアルバムの正体、アルバムタイトル通りそれが「宇多田ヒカルのうた」なのだ。

ヒカルの声に依拠しない、楽曲本来の魅力。それが炙り出されてくるのがこのアルバムの真髄ならば、それを最もシンプルに表現したのがKIRINJIのKeep Tryin'であろう。

一周目でも解説したように、彼らはさしてヒカルに思い入れはない。CDの歌唱を本人以上に完コピしたり、逆にオリジナルのラインが好き過ぎて独自の節回しを編み出すのに苦労したり、はたまた同席したら料理の味がわからなくなるほど尊敬している余り気合い入れて歌の練習をしてしまったり、といったこだわりがない。お茶漬けというあだ名は我ながら的確だったなと思う。

ヒカルと距離があるからといって、彼らの音楽的理解力や表現力が乏しいという訳ではない。寧ろ勿論逆で、彼らは優れたミュージシャン集団だ。ただ、距離をおいて遠くから眺める事で無責任に概形をシンプルに削ぎ落として捉える事に抵抗がない。その利点をこのキプトラでは最大限に活かしている。

最もわかりやすいのがヴォーカルのアプローチだ。よくもまぁそんなに力まずに歌えるものだ。本家のヒカルがライブで特に頑張る曲だからそのコントラストの落差が激しい。「世の中浮き沈みが激しいなぁ」の他人事感たるや。「そんな事より」という感じで「ただあなた」と歌ってくれているような、そんな軽さがとてもいい。

そうやって歌ってくれた事で、あらためて「キプトラってええ曲やなぁ」と再確認できたのは収穫である。メロディーの輪郭、楽曲の展開と構成の概形が捉え易く、楽曲の終着点である「Popさ」を、何の苦労もなく(というには楠均が大忙しだが)表現できている。ヒカルに過ぎたリスペクトを抱いている向きからすれば「そんなんでいいの?」という軽さだ。いいんです、それで。

ヒカルのようにエモーショナルに歌い込まなくても、歌詞の意味と音韻の両面を考えながら節回しを試行錯誤しなくても、ただフツーに歌うだけでこの曲のよさは伝わる。それを証明してくれたのだから、ある意味最も「宇多田ヒカルのうた」というタイトルに相応しいトラックになったと言っていい。

ある意味、PVの段ボールの街並みの中で、ヒカル自身までもが紙人形か何かになって、まるでパペットやアニメのキャラクターみたいに歌って闊歩しているような、人が歌の世界の中にまで入ってしまった、そういう感触がある、といえばいいかな。素直な気持ちと素直なうた。やっぱり〆のお茶漬けとして相応しい。こうでなくっちゃな。