無意識日記々

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過度の期待を躊躇する心理の裏側

「新曲が出るとしたら"桜流しの次の曲"になるのか…。」と溜め息を吐いた。普通なら凄まじいプレッシャーなんじゃないか。

ヒット曲の次、というのとはまた違うプレッシャーだろう。「少なくとも同じ位は売り上げなければ」というのとは違う、純粋な創作上の重圧。ライバルは過去の自分自身だ。

そしてヒカルはきっと、そんな風には考えていない。もう2年以上経っているというのもあるが、そもそも曲を書いている時に他の曲の事なんか考えない。"かかりっきり"だろう。

それでも、桜流しは手ごわい、と言いたい。順序次第ではシンエヴァの主題歌が"次の曲"になるかもしれないし、そうなったら"かかりっきり"と言っていられるかどうか。

別に桜流しは"EVAを代表する歌"とは捉えられていない。世間的にも、特に突出して有名な訳でもない。それでも、ああEVAQの歌ね、くらいは思われている。大体そんな知名度だ。いや、寧ろ忘れられているかもしれない。それはそれである意味都合がよい。次の新曲が、何とも比較されないからだ。


私自身の目線からすれば、桜流しは全く終わっておらず、現在進行形の楽曲なのだ。2年経とうが3年経とうが「ヒカルの最新曲」がこれであれば、これが私の"今"である。その"今"を取り替えられるのが怖いのかもしれない。桜流しが"過去の曲"になるのに、違和感があるのかもしれない。それ位に愛着がある。

こういうのを、"老害"というのかな。いつもどおり、新曲にはオープンな気分で接するだろう。接せるだろう。評価も高いに違いない。そして他の曲と較べて、というのも無意味だとわかってるんだから、それはそれで新しい局面を謳歌していると思う。何の心配もない。それでも「桜流しと較べたらまだまだ」と言いそうな自分が居る。「昔はよかった」となるべく言いたくない私が、いつくるかもわからない新曲リリースに怯えているのだ。

そういった感情すら飛び越えた名曲が今作り出されているのだろうか。ちょっと、「どこまで行く気だ?」という気分になってきた。ここからまだ期待のハードルを上げてもよいものか。なんだか、肩の力を抜いてありのままに、というのが出来なさそうなのだ。ヒカルの新曲が出るまでに、心をカラッポにしておけないかなぁ。