無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Because it's up to U.

要はいつもの、「宇多田ヒカルは讃えられるが羨ましがられない」論なのだがな。生き方ってなそういう事だ。

応援する方としては矛盾している。作品のクォリティーを上げるには生き方を犠牲にする位までいかなければならないのだし、事実ヒカルはそうしてきた。締切間際は人相も人格も変貌する位に荒むと。テイク5制作時には曲の為に自分を落とし込むまでしたんだと。そこまでいくと徹底しているけれど、だからこそひとより図抜けた曲が書けているのだ。バランスをもって眺めなければならない。


しかし、実際「大衆音楽」というジャンルはマスメディアなしではありえない。マス=mass=大衆だもんね。新聞雑誌の全国流通やラジオテレビの全国放送のない世界でそんなものが成立するかさっぱり定かではない。そして、宇多田ヒカル宇多田ヒカル陣営はマスメディアに対してこれからどう接するのか。

大衆は移り気だし無責任だし、何の執着も持っていない。ヒカルが居ないからといってどうという事はない。それはこの4年間が証明している。そこに戻っていくモチベーションは何なのか。残っている幾らかの熱心なファンに向けての活動ではダメなのか。

責めている訳でも、修正を迫っている訳でもない。何も考えずに飛び込んでみるのもまた一興、とすら思う。何より、大衆そのものより、メディアの中の人間の宇多田ヒカルに対する関心が、根強いだろう。それに抗うのは、容易ではない。

実はもう(この国に限れば)四面楚歌なのだ。どちらに転んでも具合が悪い。人生そんなに長くない。当然、ある程度は売れるだろうが、先細りそうなのは何となくわかる。

先の事を考えても仕方がない、やってみるしかない、というのがヒカルの基本姿勢だろうか。しかし、だからといって4年前以前のやり方をまたやる理由にはならない。それらは総てレーベルに任せて…と言うには、タイアップに配慮した楽曲作りをし過ぎでいる。以前の"いつも通り"がこれからも"いつも通り"とは限らない。もしかしたらもう少し、一連の15周年企画のような"実験と観察"が必要なのかもしれない。ここまで来たんだから、復帰を焦る必要なんてない、のだ。私もまだまだじっくり考えるよ。