無意識日記々

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今日という日を素直に"生きたい"

世の中、「死にたい人」或いは「死にたいと言う人」は幾らか居るような感じだけど、「死にたくなりたい人」ってなると一気に数が減る気がする。それだけ本音では「生きたい人」が多いんだろうなぁ。

『今日という日を素直に生きたい』と歌うのはテイク5だが、この歌詞を書いてヒカルは「なんだ、私生きたいんじゃん」と気付いたという。歌詞の要諦としては『今日という日を素直に』というところに重点が置かれていて、生きたいというのは無意識というか文章上の必然として余りに自然に置かれてしまっていた為、そこに込められた感情、願いや祈りに気がつくのが後になった、のだろう。つまり、生きたいという前提でじゃあどんな生き方をしたいのかという段階で『今日という日を素直に』という方法論を選択する、という意図で書かれた歌詞だったから、その前の段階、「そもそも、生きたいのか?」という問いと向き合っていなかったと。

ここはここで不思議というか、「なんだ、私生きたいんじゃん」という気づきは、自分が生きたがっている事に気がついていなかったから言われた訳で、となると、テイク5の制作時にヒカルは口癖のように「死にたい」と口走っていたのだろうか。或いは、もっと達観的か諦観的に「生きてても死んでても変わらんなぁ」という気分でいたのだろうか。いずれにせよそれらは打ち砕かれた訳だ、『生きたい』という一言によって。

そんな制作時のヒカルでも、「死にたくなりたいですか?」と訊かれればNoと答えたんじゃないか。その時点でもうその人は本音では生きたがっている。ただ、今の状況が苦しくて、でも逃げる術がなくてどうしようもなくなっている、そんな時の心情を象徴的に「死にたい」の言葉に託しているだけで、この言葉自体は、どうしようもなさから出て来ているとみるべきだ。

「死にたくなりたいですか?」という問いは、つまり、「あなたがもし自由であったとして、それでも死を選びますか?」という問いである。「死にたい」という人は、自由を奪われているだけのおそれが強い。

ヒカルの場合は、自分の意志でレコード契約を結んでいる訳で、「生きたいという感情に後から気づく」ほど追い詰められていたのは、自分でそう追い詰めたからだ。アルバムの締切が不服だというのなら、制作自体を請け負わないという選択肢もあった筈である。

勿論現実はそんな単純ではなく、多くの人たちの期待を前にして自分の気分なり何なりを優先するのは気が引ける。かといって制作はやっぱりキツい。そんなジレンマを背負うのは原理的な話であって、そこから逃れるなら総てから逃げる以外ない。大体、そのスペクトルのどこかに人は納まる。要は納め方次第だ。

ヒカルが気づいたのは、いつだったのだろう。制作途中なのか、完成して世に出た後なのか。いずれにせよ、少なくとも、ヒカルは「死にたいと時々言うかもしれない人」ではあるかもしれないが、「死にたくなりたい人」である事はない、と断言しちゃってよさそうな気がする。プロとしての創作活動はキツい。テイク5を聴き直して、復帰に備えて欲しいものである。