無意識日記々

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柄にもない米尊日卑

『なんでもない日も 側にいたいの』―季節外れだろうが何だろうが、Can't Wait 'Til ChristmasはAll Time All Season BGMである。いや、それこそがこの歌の述べんとする事であった。愛に記念日なんて関係ないでしょ、という。

この「なんでもなさ」は、メロディーの面にもアレンジの面にも現れている。宇多田ヒカルといえば聴いた事もないフックラインや歌詞の単語をPopsとして耳障り無く落とし込む事に長けているとずっと評判だった訳だが、この曲は何もかもがオーソドックスだ。内容としてはしっかり宇多田ヒカル印だが、使っている単語はそんなに新奇でもない。要するにベタである。

これは本当に難しい事だ。聴きやすく解りやすく且つ非凡というのは。難解なら非凡さはそのままアピール出来るが、明解さは平凡さと紙一重である。こういう曲も書けてしまえる所は…5年前の曲だけど、"成長"と言って差し支えなかっただろう。

あそこで一旦バトンを(いや、マイクを、かな)置いたのは、勿体無かったというかだからこそと言うか。Goodbye Happinessと共に"Pop 2 Top"として宇多田ヒカルの新しい代表曲になるには、少しLIVEの数が少なすぎた。せめて、11月から12月の1ヶ月間全国を回って『もうすぐクリスマスですね』と言いながらこの歌を歌い始めていたのなら、もう少し状況が変わっていたかもしれない。

アメリカにはまだPopsがある、と私が言えるのは、チャートの上位に来る曲が、音を聴いただけで「あぁ、ヒットポテンシャルがあるな」と感じ取れるからだ。他にもルックスやスタイルやファッションや話題性やスキャンダルや賞レースやといった要素によって順位は大きく変わるけれども、音にちゃんと(好き嫌いは別にして)説得力や存在感がある。

翻って日本の場合、チャートの上位を聴いても何故それがそこにあるかよくわからない。誰が歌っているかやどこで流れているかといった情報の方が遥かに意味を持つので、音を聴いただけではそれがヒット曲かどうかわからない。市場としての大きさは相変わらずだから今でもグローバルチャートの上位に突然ローマ字の名前が出現したりするが、それで興味を持った海外の人がYouTubeにアクセスして小首を傾げる姿は容易に想像がつく。

5年前の"Pop 2 Top"の2曲は、たとえ日本語がわからなくてもそこにヒットポテンシャルがあると音だけでわかるクォリティーを備えていた。日本語にかなり特化したメロディーであったとしても、そうなのだ。しかし、この2曲は大ヒットしたとは言い難い。シングルカットされなかったのは大きいが、それもまた巡り合わせかもしれない。次にヒカルがこういうPopsの王道を書いた時に素直に大ヒットするような下地が出来てから、というか、そういった下地のある場所で活動していく事が必要になっていくのかもしれないねぇ。