無意識日記々

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「"世界と語ろう"と私は語った」

WILD LIFEでAutomaticやFirst Loveやtime will tellといった初期の楽曲をヒカルが歌うのを聴いて、「16歳の頃は"大人のような歌唱"だったのが26歳だと"大人の歌唱"だなぁ」と思った、という話を昔した。真似るとかフリをするとかしなくてもありのままの心持ちで歌える年齢になったのだなぁと。

今32歳。いつ復帰するかはわからないが、今より若くなる事はない。ならば、今後は反対に「まるで若い人のように歌う」必要が出てくるかもわからない。過去の歌を歌う時もそうだし、これから作っていく歌がそういった歌唱を"要求"しないとも限らない。野沢雅子がおばあちゃんになっても悟空や悟飯や悟天の声を演じているように、歌手も巧く立ち回れるのだろうか。


小説には「地の文」というのがある。台詞以外の文章、鈎括弧で括られていない場所の文字の事だ。これを"語る人"のケースは様々だ。わかりやすいのは登場人物による叙述で、例えばシャーロック・ホームズは助手のワトソンの手記という形を取っている為地の文は全てワトソンの言葉だ。しかし、わかりにくい例も多く、色々と視点が揺らぐケースもあって、「ナレーターさんあんた誰だ!? 作者なの?? だったらオチ知ってるんでしょ今すぐ教えてよ」とか幼い読書家の私は思ったものだ。

で、思ったのだが、まず作者が小説家のキャラクターを書いて、そのキャラクターがまた小説家でその人が物語を書いている設定の小説とか無いのだろうか。もう21世紀だし誰かはやっていると思うんだけど少なくとも私は知らない。そこでは、実際の読者である我々は「二重の地の文」を読まされる羽目になる。かなりややこしいが、地の文の"視点"を批判的に検討するにはなかなかに効果的な方法ではないかと思う。

小説以外でなら「劇中劇」という、こちらはかなりありふれた手法がある。芝居の中で芝居の芝居をする。最近ではアニメでも劇中劇が扱われ、SHIROBAKOに至っては作中で制作されたアニメを実際に円盤付録にするなど意欲的な試みもみられる。

しかし、文章における地の文、或いは語り手の視点というものは独特だ。劇中劇は広い意味での"画面"の与える情報が総てなので語り手の視点はある意味固定である。ナレーターも補助的な役割しかもたない。しかし小説や歌詞だと語り手が総てである。何をどうその人が語るかで世界の見え方も世界そのものも変わってしまう。

歌詞でもその"二重の地の文"が実践できないだろうか。語り手を語る語り手の視点で作詞をするのである。それならば、物語の中の登場人物たちと歌い手の年齢がかけ離れていても何とかなるのではないか。ただ、多分現実には文字数が足りなくて実現は難しいかもしれない。スターシステムのように、1人の登場人物が幾つもの曲に再登場してキャラクターとして認知された挙げ句にその人が今度は語り手になる、とかまずそこらへんから地均しをして…みたいな回りくどいステップを踏みながらやっていかないと辿り着けないだろうかな。


…深夜ならではのあやふやな感じが印象深い話でございました。これ、朝になって読み返したら後悔してるパターンまっしぐらとちゃうやろか…w