無意識日記々

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唐突なMISIAヨイショ

ヒカルの功績といえば、やはり「後進への影響」も見逃せないのだが、当時の時代背景をもう一度整理しておこう。

「R&B」という単語が一般に広まったのはヒカルの登場以降である。が、何度も指摘してきた通り、音楽ファンは兎も角、ヒカルの事を「ゆうめいじん」「げいのうじん」として認知しているような最大多数の層にとっては「R&B」という単語より「宇多田ヒカル」という語の浸透度が遥かに高かった。したがって、「宇多田ヒカルはR&Bを歌っている」というよりは「宇多田ヒカルが歌っているのはR&Bというジャンルらしい」という解釈の方が多数派だった。これが、いつまで経ってもヒカルがR&Bシンガーと言われ続けた理由である。定義が逆転しているのだからR&Bというジャンルは「宇多田ヒカルが歌っているような歌」でしかなかったのだ。音楽性の話ではなかった。流石に今はもう言われなくなったけど。

それが「言葉の事情」だった訳だが、実際の所はどうだったか。98年当時、例えばFM局にリクエストするような熱心な音楽ファンにとって本当に衝撃的だったのはMISIAの大ブレイクではなかったか。「日本語R&Bで200万枚!?」というインパクト。テレビ露出も少なく、ラジオ等主導のヒットだった点から考えても、あらゆる面でMISIAのブレイクはヒカルの先をいっていた。当時の音楽ファンに対する"ムード作り"という点において、彼女の"出現"は「日本語R&Bもアリなんだ」と思わせた点において、ヒカルより遥かに影響力が大きかったように思われる。

だがしかし、単純に売り出し方が"本格派"だったが故、CDの売上に対して、たとえば地上波テレビや新聞や週刊誌に親しんでいる層には余り浸透していなかった。ヒカルはそこに割って入っていった所が違っている。PVのインパクト(?)や年齢やプロフィールがどこまで強かったかはわからないが、もう単純に曲が受け入れられたのだ。ラジオ発のヒットだったんだから当然の分析なのだが、だからといってそこらへんを総て"ヒカルが切り開いた"という印象は無い。半年ほどのズレとはいえ、MISIA発で音楽ファンに「受け入れ態勢」が出来ていたという解釈を忘れないようにしたい。

つまり、何が言いたかったかというと、ヒカルは、デビュー当時から、熱心な音楽ファンに見初められたというよりは、MISIAのブレイクのあと、「次の日本語R&Bシンガーは誰かいないの!?」というミーハーな期待感が先行してのヒットで、そこに曲の親しみやすさがハマって大爆発に繋がった、というのが当時横目で見ていた者(私)の感想である。

倉木麻衣のブレイクはヒカルの存在無しには有り得なかったが、MISIA無しでは、少なくとも、あのスピードでのヒカルのブレイクは有り得なかったのではないか。実際、("宇多田ヒカル"を定義としない)本来の意味での日本語R&Bの影響力、つまり、「あぁこういうサウンドにすればいいのね」というリスナー側の納得感は、MISIAが最初に広く与えてくれたというのが当時の音楽ファンの実感に近いのだと思う。どう?

ただし。これも最後に付け加えておかなくてはならないのだが、ヒカル自身はMISIAに全く影響を受けていない、という点だ。First Loveアルバムの各楽曲の制作時期を見てもそれは明らかだろう。寧ろヒカルは、学生であった為、限られた時間の制作で地道に仕上げていった為に完全に"出遅れてしまった"感が強い。しかし現実にはそれが急激な大ヒットを呼び起こしたのだから全くわからないものだ。ミーハーな視点や時代の流れはさておいたとして、ヒカルの音楽自体は全くのオリジナルの、イチから作詞作曲した宇多田ヒカルのものであるという所は、こうやって時代が下っても、真実として何ら揺らぐ事は無い。