無意識日記々

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闇雲〜 The Dark Clouds 〜

「ラジオ・ライブ・ライブラリ」という捉え方はつまり音楽との接し方を「未来・現在・過去」の3つに分けるという事だ。未知なる新しい音楽との出会いを与えてくれる存在という意味でのラジオであり、別にそれは本来の意味である"無線"とは直接は関係ない。新しい出会いを演出してくれるなら勿論有線放送でも構わない。ある意味暫くは"インターネット・ラジオ"って皮肉な言い方だったのだがスマート・フォンの普及で本来の意味を取り戻したよね、ラジオが。それはさておき。

ライブラリも同様である。言葉の響きだけで言えば「図書館(library)に行けば新しい本と出会えるではないか」と突っ込まれそうだが、ここではそういう意味ではなく蔵書、既知の音楽という事だ。

ライブは生演奏の事である。それ以上でもそれ以下でも無い。

なので、ラジオに対しては我々はできるだけ翻弄された方がいい。できるだけ選ばず、できるだけ偶然に任せる。一方、ライブラリは"自由"だ。その時々の気分で曲を自分の判断で選んで接する事が出来る。ipodYoutubeのお陰でここは随分と自由になった。有り難い事である。

そして、ライブラリ、即ち既知の音楽が増えれば増えるほど、ラジオは侵食されていく。過去が増えれば未来が減るのだ。そのカラクリは"期待"である。人は経験を積めば積む程無茶な事、予想のつかない事はしなくなり、「こうなるだろう」という予測の元に動くようになる。わかりやすくいえば、ラジオをつける時に決まった局、決まった番組を選ぶようになり、決まった範囲の音楽を聴くようになる。

これは勿論悪い事ではない。よい事である。いい曲に出会いたいというのが目的であるならば、その確率が高くなると期待される方に収束していくのは最適化の候補として優秀であるのだから。

そういう意味で我々はヒカルに随分と未来を奪われている。ヒカルが曲を作れば聴く。もうそう決まっている事自体が選択肢を狭めている。今までの経験から、ヒカルの新曲は聴くに決まっているのである。

だから、「ラジオ」の部分について語る事は、ここでは余り無いのだ。ストリーミング・サービスで云々というのをはじめとした「ラジオの次時代」を語る時、我々に在るのは「新しい仲間」だ。ヒカルの曲を初めて気に入りファンになりました、という人が今後ここにやって来ないとも限らない。まぁ、わかんないけど、同時に去る人も居るんだろうなぁ。

こうやって、音楽の話の中に急に「人」が出てくるのは偶然ではない。音楽は誰かが奏でるものであり、新しい音楽との出会いは、自分で書いたものでもない限り新しい人との出会いと等価である。自分で書いたものは、新しい自分との出会いでもあるけれど。

だから本来音楽の媒体としては「ラジオ」のような一方通行の"放送"よりもインターネットのような相互性のある"通信"の方が相性がいいように思えるのだが、ここがまたジレンマである。ラジオのような"闇雲な何か"がないと、最初の出会いをどうすればいいかがわからない。

だからそこは工夫が必要。ヒカルのメッセージを読んで面白かったから歌を聴いてみたらファンになってしまった、という人も居るだろうしそれもまた"闇雲"の一例だろうが、やはり、もっと吸引力のある"広場"が必要で、それが本来、日本では"J-Pop市場"と呼ばれていたんだ。

その代わりを今果たしているのは数々開催されているフェスティバルなのだろう。しかし、あんな料金の高いものがそこまで機能しているかというとわからない。我々の興味でいえば、「ヒカルがフェスティバルに参加するのとラジオに出演するのと、どっちがありそう?」という話。そりゃラジオでしょ。

そして最終兵器"テレビ"があって、となるのだが…



…なんだ、今夜の話、平易な言葉しか使ってないのに恐ろしく難しいぞ。肝心の「ライブ」に辿り着く頃には難解至極で誰も、俺すらついていけないんじゃなかろうか。この話の続きを書くのは暫く封印する事にしよう。あー怖かった。