無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

タイトルをつけるようなエントリではない

クラスタ分け、という言葉が一般的に…なってないかな、わからんけど、インターネットによる"革命"で最も大きなもののひとつに、地理的・地政学的束縛条件から人々を解放した事が挙げられるだろう。

今年に入ってからのニュースにおける安全保障問題の取り上げ量はうんざりする程だ。そんな暇あるなら美宇美誠特集でも組んでくれというのが本音(いやでも結構やってくれてるけどね)なのだが、それと同時に、何かもう感覚的に別世界の話だなという感じがしている。

安全保障は要するに領土問題であり国家と国家の問題だ。自分がこの国に所属しているのはたまたまここに生まれたからだというだけであってそれはアイデンティティや価値観とは直接関係がない。昔だとどうしたって自分がどこに住んでいるかで文化的条件も決まってしまっていたが、今はインターネットで自分の興味のあるところをひたすらブックマークする事で自分の価値観やアイデンティティを確認するようになっている。

何が言いたいかというと、国とか国家とか国籍とかで人を仕分けて対立させる構図自体に違和感があるという事だ。A国の領土をB国が侵略してくるかもしれないのでA国民はB国民に対して…なんていう言われ方をされても違うよと。それぞれの国に領土がどうのという事に関心のある人とない人が居て、ない人はそもそも武力行使云々なんてアタマにないし、軍人たちと同じに思われても困るわと思ってるんじゃないの…そういう事を直接聞けてしまうのがインターネットだ。つまり、人が国籍ではなく価値観で分けられる、クラスタ分けされる時間が人間の間で増していこうとしているところなのだ、きっと。

わかりやすくいえば、宇多田ヒカルに興味の無い隣の家に住む同国人より、地球の裏側で毎日ヒカルを聴いている人の方が"仲間意識"を強く実感できるよ、という話。なんだかインターネット時代では当たり前過ぎる話だが、安全保障問題にはこの"感覚"が全く持ち出されていない事に気がつかねばならない。国が攻めてくるとか国を守らねばならないとか、そういう地政学の話ばかりなのだ。もし仮にどの国に住んでいようとUtada Hikaruのファンで自分ちの近くでコンサートをやってくれと願う人が居たとすればその人たちは皆「日本と戦争するなんて御免だ」と言うだろう。国交が無ければ渡航なんて出来ないのだから(それ自体も問題だけどな)。シンプルで当たり前の話だが、これを徹底するのは難しい。いやほんと。

皆が皆そういう風に互いの文化に価値を見いだせれば国と国の戦争は最終的には無くなる。だから文化を育む事こそ平和の王道なのだが、そこまで行っている国は無い。それどころかインターネットに制限のある国まである。現実はまだまだシビアだ。しかし、シビアな現実を追求すれば残虐な話は幾らでも出てくる。何十万、何百万という虐殺話。誰が数えたんだそれというスケールである。そういう人たちとの心配をするというのなら我々はフヌケ過ぎるが、現地に乗り込んで解決しようという英雄以外にとってはかかずらう事自体バカバカしい。関係ないんだから。つまり、安全保障問題は程度の問題だ。その情報の知識次第である。そして恐らく、誰も知識は不十分だ。誰かがどこかで虚勢を張っているのである。あぁ、面倒くさい。

いつも言う事だが、平和になった時にやりたい事がない人、要するに生きてて暇な人が増えたら戦争が起こる。夏コミの締め切りに追われている人にデモなんてしてる暇はない。他人の領土を奪おうだなんて考えもしない。A国とB国が戦争をするのではない。A国の戦争クラスタの人(真の暇人)とB国の戦争クラスタの人が、それぞれの平和クラスタの人たちを無理やり巻き込んでマッチポンプで暇潰しをするのが真の戦争だ。彼らで勝手にやっててくれりゃあいいのだが、必ず平和クラスタの人たちを巻き込む。平和クラスタの人間は戦争クラスタの人間と付き合っている暇はない。結局は無視と怨恨なのかと思うが、怠惰と無知の壁は本当に暑い。出来れば暇人たちが「こんな事してる場合じゃない」って気がついてくれる事を信じて、私たち平和クラスタの人間は文化を推し進めてくれる才能たちをささやかながら応援していく事に致しましょう。(私らしくない締め方だなー)