無意識日記々

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デカいい音

この5年で音楽制作上で何かメリットを生じるような劇的な変化があったかといえば、ちょっと思い付かない。期待外れだったのは、私はこの10年でコンピューター制御のパブリック・アドレス・システム(PA)が劇的に進化して、どんな会場でも良好なサウンドが楽しめるようになるのではないかと予想していたのに見事にハズレた事だ。そんな話は全く聞かない。ヒカルの5の時点でそういう話が出ていたように思うのだが。

ポップスやロックのLIVEに初めて行った人がまず驚くのがその音の大きさと音の悪さである。ハッキリ言って連中はもう完全に感覚が麻痺している。オーケストラの生音などに慣れている人がやってくると、その耳をつんざくような大音響と歪みきった音像に辟易する。この壁は大きい。

特に、ヒカルのようなアーティストの場合「LIVEに行く事自体が初めて」という人も結構来る筈だ。LIVEの評判は別として、敷居が低そうなイメージはあるだろう。いきなりX JAPANのコンサートに誘われても「え、なんか怖い」と思われてしまう。まぁ、SMAPや嵐の方がもっと敷居は低いんですけどね。チケットが手に入るかどうかは兎も角。

なので、出来ればもっと穏当なサウンド・プロダクションになってくれないかなぁ、というのが願いとしてはある。WILD LIFEに関しては、私の居た席では比較的良好なサウンドだったが、別の席ではそうでもなかった、という声も聞いた。パブリックアドレスというのは、本当に難しい。

「音量を下げる。」―これが何故難しいか。理由は結構単純である。迫力とか後ろまで届くようにとかではない(あんたデカい音にしなくったって十分に聞こえる)。音量を上げた方が音像の解像度が増すからである。いや、"音量を上げられるだけ上げた方が"と言った方がいいかもしれない。音像は、音量を上げようとすればするほど歪む。元の音色や音程が狂っていくのだが、それを補正するのがアンプ(リファイアー)、増幅器である。アンプが優秀であればあるほど音は歪まず、音が大きければ大きいほど音像の解像度が増す、即ち小さな音と小さな音の違いが聞き取り易くなるため、常にひたすらいい音を求めるミュージシャンたちはアンプのヴォリュームを上げ続けるのだ。

つまり、電気が介在すると、「いい音が鳴る」のと「音がデカくなる」が常に随伴した状態に特化するのである。デカい音を追い求める人は必然的にいい音を求める事に収斂するし、いい音を追究する人はいつのまにかどんどん音がデカくなっていく。なので、少し極端に戯画化した言い方をすれば、音がデカくなっているのに気がついていないのである。

そこにLIVE初体験の庶民が来たらそりゃあビックリするだわさ。翌日耳鳴りだわさ。大音量に慣れている筈の私(メタラーなんだもんいちばん音デカいよ)もLIVEでは耳栓代わりのイヤホン(最近ではイヤホン型ウォークマンをそのままつけてるだけだが)が手離せない。やっぱあれは異常ですよ、えぇ。そして、これがいちばん悪いのだが、いい音を追究してた筈の癖にギターの高音部がグシャグシャになっているのに気がつかない。なんじゃそら。

世界のトップクラスはそこを非常にキチンと処理をしている。アイアン・メイデンやスレイヤーといったバンドはギターの(音量を上げると歪む)高い音域をごっそりと削っている。その為、かなりの大音量でもサウンドがクリアーに響いている。何故か皆それが出来ない。余程技術的に難しいのだろう、と思う。

なので、冗談ではなく、次のコンサートはエレクトリック・ベースやエレクトリック・ギター無しの編成でやってみるのも悪くはないと思う。最悪なのは、かついかにもありそうなのは「リズム隊とギターがうるさくて宇多田ヒカルの歌が聞こえなかった」という感想だ。ホントやめてそれ。みんなギター聴きに来てるんじゃないの。ヒカルの歌を聴きに来てるの。そこんとこホントにちゃんと踏まえてよ。

…そんな事言ってる私はギター・レス編成だとShow Me Loveがハナからはじかれるのでこの案には大反対なのですがね。なんやそれ。