無意識日記々

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動機が息切れせぬように。

ん、何でそんなにヒカルのモチベーションが気になるかって? まず、この5年間主として桜流しとKuma Power Hour以外こちらに届く仕事をしていない。それだけでも有り難いという気持ちは勿論あるが、常識的に考えるとこれは「アーティスト活動休止中」であり、アーティスト活動に対してやる気が漲って仕方がない、という状態ではない。

創作意欲が湧いてしまうとアーティストは止まれないものだ。借金をしようが離婚しようが体調を崩そうがどうしても没頭してしまう。ヒカルがそういうタイプではないから、モチベーションが気になるのである。

ここでいうモチベーションは「不特定多数に対して発信すること」について、である。幾らヒカルが自宅でクリエイティブでも、我々に届かないのであれば意味がない。幾らヒカルが元気でも、その報告がなければどうしようもないと以前言ったがそれと同じことである。そして「対不特定表現」は、それを選択し実行する事自体が表現の質を、作品の質を大きく変える。分かち難く作品の、作品創造過程の一部なのだ。

ここを取り違えてはいけない。ヒカルが家で熱心に絵を描いて日々を過ごすとして、描いた絵を我々に見せる予定があるかないかで、どんな絵を描くかが変わるのだ。描きたい絵・見たい絵と見せたい絵・見せる絵は別物なのだから。

それを考えれば毎度モチベーションを心配する理由がわかるだろう。その原因は我々である。ヒカルが、「またあの人たちに歌を聴かせたいな」と思って貰える我々でないといけないのだ。ヒカルがどうこうというのは二の次だろう。ヒカルの創造性やそれ自体に対するモチベーションは心配していない。それを"発表"してくれる動機を我々が削いでやしないか、というのが心配の主要なのである。もしダメになったら、悪いのは多分、十中八九、我々だろう。

「我"々"」だなんて、巻き込んですまない。殆どの人が、「私が宇多田ヒカルの人生に影響を及ぼす事なんて有り得ない。彼女が私の人生に影響する事は幾らでもあるけれど。」と思っているのではないか。そして、それに基づいて行動する。それは、裏を返せば、ヒカルを無視しているのに近い。ヒカルがそこに居て我々もここに居るなら、原理的には相互作用が有り得るのだ。それをあたかも無いように振る舞うのは、想像以上にヒカルにダメージを与えるだろう―モチベーションを削り取るだろう、それが私の見立てである。

だから、心配なのだ。あとは、マスコミの皆さんに言いたい事があるのだが、折角なのでここは堪えておこう、かな。