無意識日記々

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笑わせるのが好きな人の歌

やれやれ、健康と安全がいちばんやね。

音楽とセンス・オブ・ユーモアの話だったな。小さい頃から「人を笑わせるのが好き」だったというヒカルではあるが、直接音楽と笑い・喜劇を結び付けた事はない。これはもうアーティストとしての体質の問題で、多分誰からもそう思われてないし期待もされていない。

中には音楽で直接笑いを取りに来るケースもある。ドンキーカルテットドリフターズなどはやってるうちにほぼコントになるほどに。替え歌やパロディ、モノマネも合わせて、コメディアン、コミック・バンドが笑いを提供するのは、数は少ないにしろ至って普通の事だ。宇多田ヒカルはそこの住民ではない、という事である。

それどころか、シーンの中では、最も音楽をシリアスに捉えるタイプとして認識されていたのではないか。母が藤圭子だったり尾崎豊のファンだったりという話もそのイメージに合致する。

演歌の世界のペシミズムが我が子に影響を与えぬように祈った母親も、ヒカルが音楽を(で)コミカルに演出する手法に手を出すなんて考えてもいなかったに違いなく、事実、そうなっていない。ヒカルのその「笑わせたい」という性格を、音楽の中で表現しようという発想がそもそもなかったと思われる。それは、両親が用意していた音楽環境がそういった文化とはかけ離れていたからだ。

日本で最大のロック・バンド/アーティストは、しかし、サザンオールスターズである。こちらは元々がコミックバンドだが、シリアスな路線も非常に得意で、いとしのエリーレイ・チャールズに認められるなど、音楽に対する真面目な取り組み方も堂に入っており、その幅の広さがそのまま支持の厚さに直結している。笑わせる事も出来れば泣かせる事も出来る、総合エンターテインメントである。

ヒカルがこれからそういった笑いやコメディの路線に足を踏み入れるとは思わない。ただ、ふと思い出すと、キャリア中最もシリアスな路線を押し出したとすらいえる"Be My Last"を制作していた時に気になっているアーティストとしてさだまさしの名前を挙げていた。彼もまた、サザン同様、音楽自体で笑いもとり泣かせも出来る総合エンターテイナーだが、彼の歌を聴きながら、ヒカルは笑いについて考えなかったのかとも思う。

さだまさしの歌はYoutubeで幾らでも聴けるだろう。それはもう歌詞の乗せ方が巧みで、笑いどころにはきっちりと聴衆が笑っていられるだけの間(休符)が入っている徹底ぶりだ。ライブで鍛えられながら独自の作詞作曲術を組み上げていった事が窺える。恐らく、久々の日本語曲をギターを抱えながら制作していたヒカルにしたら、日本語の歌詞の載せ方の参考という側面が強かったのだと思うが、と同時に、4小節毎に次々と笑いをとっていくさだまさしのパフォーマンスを聴きながら思う事はなかったのかな、という疑問もまた浮かんだのである。あれから10年経つ。流石にこればっかりは既に確立した芸風だし、誰も期待していない領域だとはわかってはいるが、それこそ、喜劇やミュージカルの劇伴くらいなら作曲する機会はないものかな、という事くらいは、頭の片隅に置いておいてもいいんじゃあないだろうかな。