無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

"日本語"という語がゲシュタルト崩壊

例えば何故桑田佳祐忌野清志郎といった人たちがあんなモノマネ職人の皆さんのかっこうの餌食になるような特徴的な歌唱法を標榜していたのか、といえばそれは「どうやって日本語でブルーズ(・ロック)を歌うか」というテーマと至極真剣に向き合っていたからであって、当たり前だが当人たちは色物意識は微塵も無い。いや勿論パフォーマンス全体の中に道化的要素を多分に含む2人だからその点については自覚的だったろうが(そのせいできっと誤解されているのであろうが)、こと歌唱法一点に話を絞れば彼らは非常に真摯にそのテーマと向き合いそれぞれにオリジナルな歌唱を習得するに至っていった。それは王道だったのだ。

その文脈でいえば宇多田ヒカルに何を期待されていたかといえば、90年代以降のソウル・ミュージック、即ちヒップホップ/R&Bのサウンド下で如何に日本語を操るかという点だった訳だが、当人にはR&Bだけを背負うつもりは更々無く、英語でその路線も演じた後に日本語で帰って来た時にふと漏らしたのは「最近はさだまさしさんを聴いています。」だった。

当欄で幾度となく主張してきているように、日本語で西洋音楽由来のポップ・ミュージック或いは大衆音楽を形成する場合それは結局フォーク・ミュージックになる。どれだけ髪を逆立てて過激なメイクを施そうが日本のロックバンドで最も売れたのは「あなたでした」でメロディーを締めるGLAYだったし、パンクロックを如何に標榜しても「僕パンクロックが好きだ」と歌う時に漂う哀愁はどうしようもなく四畳半フォークのそれだ。中途半端な気持ちじゃないなら、どうしたってそうなっていく。ラップ/ヒップホップもラウドロックでさえも、皆ギターを持って歌い始めた途端日本語の歌はフォークミュージックに吸い寄せられていく。

ヒカルも10年前に似たような事を感じていたからこそ日本語復帰に際してさだまさしの名前を出していたのだろう、という考察までは散々書いてきた。では今。ヒカルは日本語とどう向き合っているとみるべきか。

そもそも、肝心の音楽の出自が日本語と無関係だ。ブルーズやロックはやっぱり英語で歌わないと、ってそりゃ英語圏で成立したジャンルだから当然の話。日本語が合う方が奇跡である。こんにち我々がポピュラー・ミュージックとして認識しているジャンル(ロックやソウルなど)だけではなく、童謡や唱歌など、一見日本に根ざしたような歌たちも作曲者の名前をみれば西欧音楽を中心に学んだ人たちがかなり居る。探せば探すほど、「音楽そのものが日本語から生まれた」ケースというのは少ない。毎度言ってる「演歌でさえ楽器編成は西洋音楽」という事だ。

ヒカルが昔薪能のような日本の伝統文化に触れようとしたのは、つまり、「音楽が日本語と共に生まれた」ケースを探していたからではないか。そういうケースが見つかれば、日本語が自然に乗る旋律や器楽演奏がどのようなものであるべきかについてのヒントが得られるのではないかと。

しかし、この試みはうまくいったかどうか。私にわかりはしないがここからみえる問題がひとつある。日本語自体がこの数百年大きく変わってしまった事だ。幾ら日本語と音楽がガッチリタッグを組めていたケースが見つかってもその日本語が今の日本語と大きく異なっていればそれを参考にするのは難儀だ。その距離感はどれくらいになるのやら。

そして日本語の変化のうちに大量の西洋音楽が入って来、どこにも日本語から音楽が生まれる空間は無くなった。勿論、個々の楽曲なら幾らでもある、というか詞から先に作る歌は皆そうなっているハズなのだが、アカペラにしない限りそこに待っている伴奏楽器はピアノやギターといった西洋楽器だ。もう、メロディーの文脈はそこに合わせるしかない。その中で収斂して最も「型」として有用だったのが60〜70年代に確率したフォークミュージックだったとみる。収斂というからには、他のジャンルを志しても日本語を大切にする以上そのスタイルに収束してしまうという意味である。

ならば宇多田ヒカルはフォークミュージック以上に日本語を活かす事が出来る音楽を創造出来るのだろうかという話からまた次回。