無意識日記々

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いきることだといいきることだ

出たばかりの本について、どのタイミングでどれくらい語ってもいいものかねぇ。ネタバレが云々といった類いの内容ではないので、早めに積極的に取り上げてもいいのかな。それとも、皆が一通り待つまで少し間をあけた方がいいのかな。ちょっと、悩ましい。

明日はヒカルの33回目の誕生日。生まれた日も数えるなら34回目になるんだけどそれじゃややこしいから大体こう言うよね。そして前に書いた通り、くまちゃんが来て10年になる。贈ったご当人へ宛てた歌からそのまま引用すれば「とうとう知り合って十年」だ。結構なもんだね。

もう少し正確に言えば、彼が彼として喋り始めるのが2006年の5月の事になるので、我々とは知り合ってまだ十年ではないのだが、他に適切な記念日も思い付かないので明日で十年でええやろ。

どこから始めよう。結局ヒカルは自分で自分を救っただけだ、と言い捨ててしまう事も出来るが、それを言って我々が得られるものは何もない。これを真実の欺瞞性だと言い切れるかどうか。途轍もなく難しい。

事あるごとにくまちゃんの毛並み、手触り、肌触りが語られる。それなくしては成り立たない。くまちゃんがぺちゃんこになる夢を見て泣きながら起きてくる…何だろう、それがシリアスでないとはどうしても思えない。くまちゃんは不死身である筈なのに。

いや、それはマズい。くまちゃんは、ヒカルと同時に死ななければならない。初代の宗教家みたいなもので、誰かが代弁し始めるとろくな事になりゃしない。一世一代であるべきだ。

だからヒカル、もしくまちゃんを喪いたくなければ、自らが死なない事だ。死んでも死ぬな。飲んだら乗るな。そういや免許結局どうなったか知らないや。

一方で、ヒカル以外のそれぞれのおうちにくまちゃんの仲間がたくさん居る。皆別人、いや別人熊である。それを抱き締めている人は、あなたが死んだら熊も死ぬと心得よ。

即ち、くまとは「生きること」そのものなのだ。だから、くまちゃんなくしてヒカルは自らを救えなかった。ヒカルが生きていくからだ。単純だが、難しいな、これも。

だから10年では足りないし、一世一代は、あなたにとっても誰にとってもただそうなのだ。そこから先には行けないし、そこまでは行かなくてはならない。世界が心の重ね合わせであるからには孤独は誰の手も届かない所にある。あなたの居る今、ここだ。


示唆に富んでいる。くまちゃんから学ぶ事は余りにも多い。誇張でも何でもなく、くまの向こうに宇宙が見える。WILD LIFEのオープニングをあんな風にしたかったのはよくわかる。果てしなく、親しみやすく、そして身近だ。総てはそこから生まれて、永遠を憧れながら、また還る。たくさんのイメージが湧き出てくる。生きる勇気なんだと思う。


くま崇拝、というのは本音だったのだろう。確かにこれは宗教の真髄だ。だからこそヒカルはこれを一世一代で終わらせなければいけない。それぞれが、それぞれのくまを手にして生きていき死んでいくべきだ。



くまちゃんの前世もまたくまちゃんであったなら、とは考えなかったのだろうか。きっとチョコレートだというのだから、チョコなのだろう。

…なんか輪廻転生の核に掠った気がする。まだもうちっと遠いけれど。


しからば。この後日付が変わった後。ヒカル33歳を祝いつつ、くまちゃん10年も祝おうじゃないの。そして、あなたのところにくまが来た記念日も、思い出せるだけ思い出してあげて。思い出せないなら、覚えているいちばん最初の思い出の日が記念日だ。祝ったら、どうやって喜んでくれたか、しっかと胸に刻んでまた一日を生きていきましょう。