無意識日記々

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『花束を君に』の第一印象の話

花束を君に』は、ヒカルには何とも珍しい「感動的な楽曲」だ。いや、ここでは少し陳腐な意味にさせてもらった。ハリウッド映画の主題歌のような、という感じだといえば、ほんの少し伝わるだろう。

大仰に盛り上げる、とかいう演出の手法より寧ろ旋律の質感の話だ。ヒカルのメロディーは、どちらかというと胸を締め付けるような切ない質感が支配的で、幾何学的な言い方をすれば「感覚が真ん中に集まっていくような」動かされ方をする。しかしこの『花束を君に』は、感情が世界に広がって次々と独り々々を包み込んでいくような"包容感"に満ち溢れている。優しさを感じた人が多かったというのもここだろう。

今までこういう曲調は主流ではなかった。例外的なのが、『First Love』、『Eternally』、そして強いて挙げれば『FINAL DISTANCE』までか。その系譜に名を連ねる、しかし、メロディーは異形な為例えばLettersや桜流しのような宇多田ヒカルならではの捻りを押し出した作りになっている。結局は感覚的な話だ。

一方で歌詞自体は私信のようなプライヴェート感を誇る。Lettersを思い出せ、と言っていたのはこの点だな。そこに包容感を伴っているのが今までにない特徴だ。何故なのか。

それは、まだフルコーラスを聴いていないから推測の域を出ないが、昨今のヒカルならではのあの手法が更に押し進められているのが効いている点なのではないか、つまり、歌詞に2つの横顔を持たせ、相反する価値観のどちらから見ても共感を呼ぶように作る、あの神憑り的な手法だ。

代表作は、ここの読者ならもうお馴染みだろう、『Can't Wait 'Til Christmas』である。あの歌は、クリスマスが好きな人にも嫌いな人にも同じように頷いて貰える作りになっていた。レトリックというには余りに鮮やか過ぎる、あの方法論だ。

今回のキーとなるのは、そう、『涙色の花束』だ。そこまでの流れ、人によっては別れの歌や見送りの歌と捉える。一方で、祝福の歌、幸福の歌と捉える人も居る。どちらも、正解になるだろう。相反する感情や状況を、等しく優しくすくいあげて包み込む。スケールの大きな包容感の発端がここにある。

こんな歌詞はヒカルにしか書けない。幾ら技巧を凝らしてもこの感情は生まれて来ないのだから。ヒカルが何故書けるかといえば、ヒカルが本気で「喜び5gも悲しみ5gも同じ5g」だと感じれているからだ。ヒカルは、その“同じ”である部分を歌詞に起こしているに過ぎない。そして、今回それがどう同じ色に見えているのかという問いに対する答として『涙色』というキーワードが生まれたのだ。それはもうどこまでも透明で、地球をガスのように包み込まんばかりに純粋である。

この歌は、生を祝福する歌に聞こえる事もあるし、死と向き合う為の歌でもある。出会いに喜ぶ歌にもなるかもしれないし、別れを飲み込む為の歌になるかもしれない。波瀾万丈喜怒哀楽、どの状況にも対処できよう。「あさが来た」の主題歌がアバンの雰囲気と合わなくてやや唐突に聞こえたような状況は、この歌では起こらない。様々なムードが押し寄せてくる朝の連続テレビ小説に対して完璧過ぎる、完璧を遥かに上回る宝石のような楽曲だ。こんな歌に包み込んでもらえて、このドラマはなんて幸せなのだろうか。是非ここから、すくすくと育っていって貰いたい。


花束を君に』。どう感じてもそれはあなただけの正解ではなく、皆にとっても正解だ。ひとりでこだわっている必要はない。『花束を君に』の『君』は、正にあなたの事でもあるのだから。それがいつのことだったのか、又はいつのことになるのかは、僕にもわからないのだけれどね。