無意識日記々

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慣れた匂いのするのが慣れない

花束を君に』は、タイトルを見た瞬間に曲調のイメージが広がり、果たして感触としては大体期待通りのトーンだった。具体的には、まさかあんな動きをするメロディーだとは思っていなかったが。ピアノに導かれてドラムやストリングスで曲を盛り上げていく手法はまんま桜流しと同じであり、曲の骨格は嵐の女神に程近い。新鮮味は溢れているが、正調宇多田ヒカル節といって構わないと思われる。

他方、『真夏の通り雨』の方は、曲の断片を聴いた現時点でもまだイメージが湧いてこない。ピアノと詞の組み合わせは、何度も書いている通り雨、こら(笑)、何度も書いている通り、『誰かの願いが叶うころ』を彷彿とさせるし、「どこからサビだかわかんない」と仮想酷評(ネット病だなこれ)したサビのメロディーは思わず『花に名前を 星に願いを』と歌い継ぎたくなるくらいにLettersに似ている。しかし、なのにこちらは「正調宇多田ヒカル節」という言葉を使いたくならない自分が居る。何故なんだかわからない。

ひとつには、既述の通り、ワンコーラスだけ、それも編集してあるかもしれない部分だけでは歌詞の意味をはかりかねていること、それに加え、まだ歌詞の中に『真夏の通り雨』というフレーズが出てきていない、という点がある。

もうひとつは、上述のような、「過去作と似た要素を持っている事」それ自体だ。昔のヒカルだったらそういう既存の型の援用は避けていたように思うが、この『真夏の通り雨』に関しては臆面も躊躇いもない。それ自体が違和感なのだ。

となると、導かれるのは、『真夏の通り雨』に関しては、音楽面での面白味みたいなものを一切捨てて、メッセージを訴える事に特化したアプローチをとった、というコンセプト上での新生面だ。ヒカルはひとつひとつの曲にそれぞれに独自なサウンドストラクチャーを構築してきたが、言葉を重視したいと思った時は確かにこうしてくるのは有り得ない話ではない。『About Me』や、様々なサウンドアプローチを配信やテレビやライブで実践した『Be My Last』が、敢えていえば近い路線か。

となると、『真夏の通り雨』に関しては、海外の、日本語がわからないファンの人たちにどう響くかに関心が集まる。15日には世界同時配信になるのだろうか。桜流しのように、英語の翻訳をヒカル自身が書き掲載するのだろうか。何故あの桜流しのページを消したのか未だに「わけがわからないよ」なんですがそれはさておき。

いずれにせよ1日の終わりにヒカルの歌声が響いてくるのは、なんというか、やっぱりグッとクるものがあるねぇ。出来ればこれから半年間、長くニュース番組のエンディングとして流して欲しいものである…だなんて書いたらフラグになっちゃいそうで怖いな、あははははは。(どういう意味なんだ(笑))