無意識日記々

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知ってる? 知ってない?

前々回は「世代交代」という書き方をしたが、事はそう単純ではない。この最初の2曲、『花束を君に』と『真夏の通り雨』が連れてくるオーディエンスは、タイアップの性質上、年齢層がかなり高い。普通世代交代というと若返りを指すが、今回の場合平均年齢が上がるかもしれない。

実際、この2曲は若い人には厳しいと思う。自分ですら、仮に14歳の時にこういう曲を聴いて気に入っていたかと言われたら確信が持てない。難しいというより、捉え所がないかもしれない。

難しい面もあるが、それは歌詞全体がダブル・ミーニングである点で、それは別に片方の意味の取り方を知っていれば十分に楽しめるのだから、いわば聴き込むマニアの為のマニアックな楽しみ方だ。それが本質でもあるのだが、なんだかんだ商業音楽なのでそこまで考えなくても楽しめるものでなくてはいけない。

あとは、毎度お馴染み文脈依存性である。我々はつい、2曲が母親へ向けた歌だと捉えがちだが、それは我々がバックグラウンドをよくよく知っているからそう受け取るだけであって、知らない人はそんな風にとらない。

と言ってはみるものの、現実に日本語を聴き取れて、かつ藤圭子宇多田ヒカルの事を知らずに、尚且つこの2曲をフルコーラスで聴いた人は一体世の中に何人居るのか。かなり少ないのではないか。でも、だからこそ訊いてみたいものだ。何も知らなかったら、この2曲の与える印象はどのようになるか。知ってしまったらもう元には戻れない。

その点を、ヒカルがどう考えているのかも知りたいものだ。中には、ヒカルと藤圭子の関係性を知りつつも、お母さんについて歌っているという視座にまで及ばない、という人も居るだろう。こちらはかなり現実的だ。その点に気がついた時、見える景色がどのように変わったのか、教えて欲しい。

ポピュラー・ミュージックでは、聴き手が歌い手の物語を知っている前提で歌が歌われる事は多い。「伊代はまだ16だから〜♪」とか何言ってんねんという感じだが、アイドルとしての彼女のストーリーを知っているなら感情移入できるだろう。いやもう30年前の曲なんですが。

ヒカルはあからさまではない。知っている人に伝える事がある、という程度か。でも、確かに、そんな事前知識、聴く前提なしにシンプルに楽しめる曲もあった方がいいかもしれない。そこはまた、アルバムのリリースまで待つがよろしかろう。

今のところは、いろんな事を読者が知っている前提で書いている。それなしでの楽しみ方とありでの楽しみ方と、明確に区別しながら書き進んでいこうかな。そういう意味では閉じたコンテンツなんだが、それでヒカルがよしとするなら、どうにか意味があるんだろう。ゆっくり探っていきましょうかねぇ。