無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

姉妹曲

花束を君に』に込められた"嘘"とは何なのか、そもそも『花束』の意味する所は何か。それについていつどう騙るべきか、否、語るべきか、まだまだ悩んでいる。恐らく、自分の中で、トーンが微妙に変化するのを待っているのだ。


それはそれとして。5年半前、ヒカルは『Goodbye Happiness』のビデオで、その前の12年を総括するような映像を撮った。我々は感動して泣く者まで居たというが、過去を共有している者同士ならではの現象と言える。

今回、『真夏の通り雨』には、やや控えめに、ではあるが、歌詞においてその「過去の共有」を示唆するような設えがあるように感じられる。これは、かなり個人的な感覚である。

例えば、『真夏の通り雨』の『瞼閉じても戻れない さっきまで鮮明だった世界 もう幻』の部分は、私には『BLUE』の世界を想起させる。『砂漠の夜明けが瞼に映る』とか『遠い国の出来事』とか言われた時のあの感覚。

『たくさんの初めてを深く刻んだ』の箇所は、すぐさま『幸せになろう』の『初めてだったらよかったのに』を思い出した。『深くが直接『深い河』を連想させた事も大きい。

『揺れる若葉に手を伸ばし』はまんま『SAKURAドロップス』である。『桜さえ(まで)風(時)の中で揺れて』の『揺れ』と、『そっと君に手を伸ばすよ』の『手を伸ばす』。本当にまんまだ。

真夏の通り雨』での『SAKURAドロップス』攻勢は、甚だしい。『勝てぬ戦に息切らし』は『どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ それでもまだ戦うんだろう』を連想するし、『思い出たちが』もすぐに『思い出とダブる映像』を喚起する。そもそも、『真夏の通り雨』というタイトル自体が『降り出した夏の雨が涙の横を通った』そのものだ。更に、以前指摘した通りエンディングの『ずっと止まない止まない雨にずっと癒えない癒えない渇き』は『好きで好きでどうしようもない それとこれとは関係ない』と同じセンスで形作られている。姉妹曲と言って差し支えない。

桜流し』も忘れてはいけない。『木々が芽吹く 月日巡る』は一瞬桜流しの歌詞かと錯覚するほどだし、『見ていた木立の遣る瀬無きかな』と『立ち尽くす見送り人の影』はほぼ同じ意味である。

今歌われる言葉が過去と響き合う。この感覚は、長いファンの特権である。特権。私の嫌いな言葉なのかもしれないが、そこにヒカルの狙いがあるのなら、慎みつつ喜んで享受しようと思う。どうしようもない、否定し得ない事実なのだ。ヒカルの歌を聴いて過ごしてきたこの人生の時間の数々は。