無意識日記々

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あなたはくまを信じますか?

AIに頼らずともぬいぐるみ一体居れば創作上の効果は計り知れない。人間を介さず独自に作曲できるのがAIの強み、と言っても結局どこかで人間が聴いて判断しなくてはいけないのだからぬいぐるみとさほど変わらないし、判断をAIにさせるにも、判断基準をプログラムするよりその基準を満たす曲を書く方が必ず早い。どこまで行ってもAIは人間の後を追うだけだ。

それはそれとして。

くまちゃんの存在の大きさは今更改めて強調するまでもない。今の関心は子育ての中でどんな役割を演じるかなのだが、今のところそれに関する話は聞かない。例えば、パイセンがツアーに出るとして、どこかに託児する時に、くまちゃんは母親代わりになるかもしれない。オスだけど。

或いは、新しいくまちゃんをダヌパに与える事も考えられる。くまちゃんはくまちゃん。息子であっても渡す訳にはいかない、と。あなたも唯一無二のくまちゃんを見つけなさいよと。理屈や理由はさておき、そういう存在が大きな意味を持つ事は身に沁みて知っているだろう。パイセンは。

新曲2曲のシリアスさは、くまちゃんのノリからは程遠いように思える。しかし、どこにだってくまちゃんは現れ得る。Goodbye Happinessのミュージック・ビデオにも登場したように。ただ、Pop Musicianとして、その事実は周知徹底させないと、また要らぬ誤解を招くだろう。

ならば、と。せっかく母親になったのだから、童謡としての側面をもっとクローズアップすればどうか。実現可能性皆無なのを承知の上で言うならば、「ヒカルの子守歌」カバー・アルバムを作ってそこに「ぼくはくま」を入れれば万事解決。嗚呼、そういう事もする歌手なんだと納得して貰える。一石何鳥だろうな。出来れば、の話だが。

今のところ、新曲に関しては、母である事よりも娘である事の方に話は集中している。それだけ藤圭子の話題があまねく浸透していた、という事もあるだろうが、まだ、こう、母であること、というのが客観的に見えていないのかもしれない;くまちゃんに抱き付いて、離れて、息子と向き合った時にどんな表情(かお)を作っているのか。まずはそれを知ってからか。楽しみにしています。