無意識日記々

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恐らく透き通る事すら許されない

今までもずっと『SAKURAドロップス』の最後のパート『好きで好きでどうしようもない それとこれとは関係ない』の部分と、『真夏の通り雨のこれも最後の部分『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』の部分には共通項がある、と言い続けてきた。それは勿論そうなのだが、やはりこの2つの間には決定的な違いがある。歌詞の心情の話になるけれど。

SAKURAドロップス』の方は『どうして同じようなパンチ何度もくらっちゃうんだ それでもまた戦うんだろう それが命の不思議』の歌詞に代表されるように、どれだけ失恋してもまた新しい恋を始めようという"めげない心"を歌ったものだ。『桜』というモチーフは、何度散ってもまた新しい花を咲かせる美しさと力強さの象徴である。更に、そこから広げて、何度も繰り返される命、輪廻転生の世界観にまで足を踏み入れるスケール感まで持ち合わせている。

一方、『真夏の通り雨』の方は、ただこうなりましたと歌っているだけだ。望んでもいないし願ってもいないし祈ってすらいない。『教えて欲しい』『教えて』『今あなたに聞きたいことが』『伝えたい』といった言葉たちは望みや願いではないのか、と言われそうだが、違う。ただこれは今の心境を叙述しているに過ぎない。

この気持ちがあるからといって、ではこの次に何をするのか。教えてもらいに訪ねる賢者が居るのか? 居やしない。聞きたいことに答えてくれる人がいるのか? 居やしない。何をする事も出来ないのだ。

人に望みや願いがあって、でも自分ではどうする事も出来なくて、という時人は祈る。「どうか世界が平和でありますように」、という風に。そこには一縷の望みや一途な願いがある。いつか本当に叶うのではないかと。『真夏の通り雨』にはそれがない。もう総ては終わった事なのだ。願う事も望む事も祈る事さえ許されない。もう、本当に、何も出来ないのだ。

それがわかっていてそれでも『教えて欲しい』『聞きたい』と歌うのは、まるで駄々をこねるこどもである。母親に甘える赤子である。この歌は、そういう歌だ。

SAKURAドロップス』では、終わらない輪廻の世界を受け止めて、それでも力強く生きていこう、という命の宣言だった。『Goodbye Happiness』では、『あの頃に戻りたいね baby そしてもう一度 Kiss Me』と輪廻の世界観に支えられた現状そのものを全肯定してみせた。

真夏の通り雨』のヒカルは、果たしてそんな事が歌えるだろうか。「生まれ変わってもまた」ここに来て同じ事が起こって欲しいと言えるだろうか。言えない、よな。

SAKURAドロップス』の『好きで好きでどうしようもない それとこれとは関係ない』は、苦しみに終わりがなかろうと立ち向かって生きていく前向きなループだった。ループを受け入れていた。『真夏の通り雨』の『ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き』のパートは、もうやれる事もなく、駄々と絶望の沼に囚われて全く抜け出せない、抜け出す気力もない、一言で言えば「地獄」としか言えない世界を歌っている。ここまで救いの無い歌はなかった。ポジティブとかネガティブとかそんなものではない、正真正銘の絶望である。

ここから、ヒカルはまた新しい歌を歌い出す。ここで終わっても仕方が無かったのに。とても有り難いけれど、どうしてそれが可能になったのか。少しずつ考察していこう。