無意識日記々

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呪いとお祝い

前回の続きを一話飛ばして結論だけを書くと、「宇多田ヒカルは音楽がどこに在るかを教えてくれる」となる。これからも、呪われているかのように、ヒカルはいい歌を唄うだろう。

漫画「あしたのジョー」は全20巻(文庫版は違うかな)。力石徹が死ぬのはそのうちの第7巻だ。後半の3分の2は、矢吹丈が立ち直って世界チャンピオンを目指す物語になる。作品上での名勝負は、この後半でのものの方が前半より遥かに多い。単純に、作者陣がヒットする漫画の書き方にこなれてきたからなのだろうが、矢吹丈から見れば、もうそれは、真っ白い灰に燃え尽きようと駆け抜けるしかなかった物語だ。

一方ヒカルは母である。どれだけ人生に後悔が募ろうと、新しい誰かの人生を生み出してしまった。子育ては、放棄も含めて色々なやり方があるだろうが、ひとまず生きねばならない。透き通っていたい、という最後ともいえる願いすら叶えられそうにならなくなっても、生まれてきた彼はそれらを総て許すのだ。であるならば音楽は彼に対する祝福だ。ならば花束は音楽なのだろうか。

ここが難しい。どこまで分けて考えているのか。私にはわからない。取り敢えず、最低限言える事は、『花束を君に』を、僕たちが祝福している事だ。存在を讃える。それはもう、ね。


全く別の方からヒントを得た。『涙色の花束』が、雨に濡れた花の集まりだとしたら。『SAKURAドロップス』でも『桜流し』でも『真夏の通り雨』でも雨は涙の比喩である。涙が花を洗い流していく景色。それを潜り抜けてそれでもまた咲いた花。雨に打たれても散らなかった花。雨に濡れた花びらを見て『涙色の花束を』と言いたくなるのは必然ではないかと。

その通りだ。とても前向きで、力強い。それでいいし、それがいい。異論もない。

タイトルは『花束を君に』である。『花束を君に贈』るのだ。

『両手でも抱えきれない眩い風景の数々をありがとう』とヒカルは歌う。風景を抱えるとは妙な表現だがこれは勿論花束の比喩である。それを花束に喩えたならば、もうそれは私の両手じゃ抱えきれないくらいにたくさんのものを、貰ったんだよと。だから私は君に、あなたに花束を贈るのだと。

いつ贈るのか。『今日は贈ろう』。『は』が面白い。その今日は特別なある一日なのか、それとも純粋な今日、即ち毎日なのか。前者なら今日は贈るけど明日は贈らない。後者なら今日も贈って明日も贈って。解釈は読者に委ねよう。


ならヒカルはこれで吹っ切れたのだろうか。そう思う事も出来るし、次の歌まで待つのもいい。結局、いずれにせよ、2曲また名曲が生まれた事には変わりがない。どこまで呪われていれば気が済むのだろう。せめて我々の方は、素直に讃え祝福したい。そうやって生まれたきた歌を聞いて、幸せになろう。