無意識日記々

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歌詞の時代

「気付き」のツイート、自分が見た時点では1万RT、2.5万Favだった。キンタマには勝てないが、なかなかに注目を浴びたのか。もっとも、最近のRT&Favは3万5万はいかないと目立てない数字になっているので、衆目云々という数字でもないだろう。

「歌」の役割は、元来情報の伝達や蓄積だった筈だ。物語を詩にして節をつけて世界を動いてゆく、そんなイメージ。もしかしたら書き文字より前からあるのかもしれない。となると、以後様々なメディアの誕生によってその役割の担い手は移ってきている筈だ。

文字や印刷、写真、蓄音、映画。郵便に電信にラジオにテレビに。今の時代はインターネット。誰かの発した言葉を誰かが受け取る。そのシンプルなプロセスにとって、今や歌は邪魔だ。無駄なひと手間であるとすらいえる。

前から言っているが、インターネットの脅威はコピーとダウンロードではない。歌の役割を大幅に代替できる事だ。特に歌詞にメッセージを載せるのは今や“過剰な贅沢”に過ぎない。言いたい事があればツイートすればよい。種々が噛み合えば、瞬く間に何万何十万という人々に自分の言葉を届ける事が出来る。

そう思っていた。ヒカルの新曲2曲を聴くまでは。

一言で言えば、ここにあるのは「詞の新時代」だ。まだ完成した訳じゃない。とっかかりを得たに過ぎない。しかし、ここに在る言葉たちは歌の歌詞という形態でなければ本領を発揮する事のできない何かになりつつある。たとえ歌詞を書き文字にしてツイートしても伝わらない、歌詞としての凄み。それが何であるかはわからないが、ひとたび聴き始めたら耳を離せない魔力をどこかからか感じる。

旧時代の人間なりの言葉遣いで書けば、これらは、歌が芸術品、アートとしての地位を確立する端緒となりえる作品群なのだ。方法はわからないが、美術品のようにミュージアムに並べて鑑賞したくなる。

疑問なのは、これが日本語というローカルな言語で歌われている点だ。アートにローカルが必要なのか。デュシャンが「泉(仮)」で提示した古典的な問題意識がここにも立ち現れてくる。この歌詞は、ひたすら日本語と共にある人間たちの存在なくしては成り立たないのか。わからない。ただ、それを越える圧倒的な何かに到達しないとアートとは呼べないかもわからない。まだまだそれは、今の話じゃない。

「歌詞」という、妙ちきりんな、今となっては枷ばかりでまどるっこしい表現伝達方法が、“過剰な贅沢”より更に向こう側の、アートとしての存在感を得るに至るまず最初の過程。そう思ってこの2曲に耳を傾ける。きっと何かがあるのだろう。まだそれが何かは、わからない。長生きしたくなってくるじゃないのさ。