無意識日記々

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機械と社会と音楽と

7月に入って、下半期か。ヒカルはダヌパのお祝い、さおりんのお祝い、お母さんのお祝い、と立て続けだが、果たして日本に居たのやら。今回から生楽器、生バンドを多用するとなると一ヶ所でレコーディングできるとは限らない。依頼するミュージシャンの都合によっては現地まで赴かなきゃいけない。人が居てこその土地であり、逆ではない。各地のスタジオも、立地条件の選定から機材の組み合わせに至るまで総て誰かの選択、センスである。そして勿論作業は人の手だ。その人のセンスに惹かれて、ロンドンなり東京なりにレコーディングしに行くのだ。もっとも、渋谷なんかはヒカル自身が"住み慣れてる"から、という理由もあるだろうが。

総ての機械は誰かが作った、という当たり前の事実を現代人は忘れがちだ。それも仕方がない。計算機の発達によって、とても人が到達できそうにない領域まで来ているように見えているからだ。最近は将棋でプロ棋士に勝つまでになっているし、チェスなどは既に過去の話なのだから。

しかし、計算機は、それまでの機械に較べたら寧ろ「人間なら誰でも出来る」事しかしていない。機械がやるような重い物を遠くに早く運んだり空を飛んだりといった事を素手で出来る人間は何億年経っても出て来ないだろう。何億年も経てば進化して出来るようになっているかもしれないがそれは既に人ではないだろう。しかし、計算機は、紙と鉛筆さえあれば人が出来る事しかしていないのだ。原理的には。ただ、圧倒的に速いだけである。人が、進化せずに、何世代にもわたって何万何億人もが分業して紙と鉛筆で計算していけば、確かにプロ棋士に勝てるのだ。勿論、将棋のルールには時間制限があるから、それを考慮しなければ、だが。

つまり、機械への恐怖は社会への恐怖とよく似ているのだ。現代人は、何世代にもわたって何万何億という人々が分業して作り上げ、維持している。お陰で、サバンナで1人きりで暮らしていたのではとても味わえないような体験を沢山出来る。一方で、個人としては、その、何が起こるかわからない社会というシステムに受け入れられるかどうかの恐怖に身を窶す事になる。機械への恐怖は、その、抱えきれない多数の(擬似的な)人間の集合体に対する感情と相似している。

逆に、社会にせよ機械にせよそれはシステムだ。複雑怪奇なマニュアルさえ会得できれば、うまく使いこなす事が出来る。そして、もしそれが出来たとしても、日々出会う一人々々の人間は、生身の、システムではない生き物である。マニュアルなんかありっこない。


打ち込みから生演奏へのシフトは、感情の物語だ。使いこなせる道具から、予測不能な生身の人間たちとの対話へ。ただ自分の思い描く風景を描く為なら、機械との対話だけでもよかったのかもしれない。生演奏がもたらすのは、たとえ渡した楽譜通りに演奏して貰ったとしても起こり得る"予想外の何か"だ。ますます機械は便利になる。そこを逆行するからには、自らの創造性が"犠牲になる"事も厭わない精神が必要だ。どこまで何をしているか。ヒカルが後に、出来上がった音源の中で"スタジオで初めて起こったこと"がどれ位含まれているかについて語ってくれる事を、今から楽しみにしている。