無意識日記々

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シン・ゴジラを、観てきたよ(3)

映画を見始めるとすぐ、登場人物が過度にカリカチュアされている、戯画化されている事に気がつく。どの言動も、それぞれの立場(政治的役職)において、リアルであるというよりも、「如何にもありそうな」「人々のイメージの中にある」ものとして、描写されていく。折角の実写映画なのに、庵野秀明総監督、アニメよりもアニメっぽい、いや、漫画的、戯画的ですらある描かれ方だ。

そこに、本作の主眼のひとつたる、ブラックユーモア溢れる会話の数々が繰り広げられる。戯画化されているというのは、そのブラックユーモアのエッセンスを、別に登場人物たちが実際に感じている訳ではないという事だ。少なくともその視点を観客と共有している訳ではなく、彼らは作劇の中で、徹頭徹尾、至って真剣そのものである。それらを、映画の力(編集)で、ユーモアとして我々に提示してくれている。

そのユーモアの質は、徹底的な風刺と皮肉だ。政治を扱う作品としての常ではあるが、それを庵野秀明の矢継ぎ早なカット割で見せつけられると、独特のグルーヴが生まれてくる。ひとつひとつのネタは、しかし、過度なまでにわかりやすく典型化されたものだ。この感覚、アニメや漫画を飛び越えて、もっと更にルーツ的な感覚を呼び起こす。あれだ、新聞の政治欄に載っている一コマ漫画である。

一コマ漫画の歴史は古く、現代の柔軟なコマ割の漫画や四コマ漫画よりずっと昔から存在している。そこらへんについてはWikipediaでも参照していただくとして。新聞を読まない若い人は一コマ漫画自体馴染みがないものであろうが、あの、歴史の教科書に載っている「成金が百円札に火を点けて"どうだ、これで明るくなっただろう"と宣う図」みたいなヤツである。そこでは、登場人物が極度に戯画化されて各関係性が構図として表現されそれぞれの立場を簡潔な台詞で補う、といった手法が編み出され援用されている。シン・ゴジラを観始めてまず最初に思ったのが、その、「まるで一コマ漫画の風刺画が次々にフラッシュバックしているかのようだ」という事だった。

当初、アニメーション監督・アニメーターである庵野秀明が実写映画を撮るとどうなるのか、実写の特質をどう活かしてくれか、という興味をもったのだが、実際は思いもよらない方法論だった。つまり、アニメはおろか漫画のルーツにすら似通う、極めてルーツターニングな発想で実写映画を作り上げてきたのだ。勿論それはこの作品のもうひとつの主軸である「ゴジラの表現」とは異なるのだが、全編を支配する会話劇が一コマ漫画の集積物だという考えに辿り着けば、非常にこの映画の作品としての見通しがよくなってくる。

その一コマ漫画的な戯画化表現の頂点にあるのが石原さとみ演じる大統領補佐官だ、という話からまた次回。長ぇなぁ。