無意識日記々

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つまりのはなし

『俺の彼女』はヒカルが"演じ"るのが巧くなったから、その台詞をリスナーは宇多田ヒカルの、もっと言えば宇多田光個人の感情や思想を反映したものではないと解釈する、というのが前回の言及だった。

これは、それと最も対照的な『光』と聴き比べる事で明確になる。『光』は、宇多田光個人の名前を冠するまでにパーソナルなステートメントなのだ、と解釈される事が多い。今は兎も角、当時の宇多田光の心情をそのまま率直に唄った歌、という評価である。それに異を唱えるつもりはサラサラないが、しかし、この『光』もまた『俺の彼女』と同じように、男の台詞と女の台詞を唄い分けた歌なのである。

『光』での唄い分けは結構シンプルで、高音が女性で、低音が男性である。その明確さの割にこの曲は『俺の彼女』とは違いミュージカル風とか何とか言われる機会は少ない。それは、そう、ただ普通に歌っていて、口調に工夫がないからである。たったそれだけかと言われそうだが、試しに『俺の彼女』と『光』の歌詞を文字だけで読んでみればいい。歌で聴くよりこの2曲は随分"近い"と感じる筈だ。

つまり、『俺の彼女』と『光』は、作詞のアプローチ上は共通点に溢れている一方で、前者はヒカルのパーソナリティからかけ離れた内容を唄った歌と解釈され、後者はヒカルのパーソナリティそのものだと解釈されている訳だ。

ただ、『俺の彼女』にはしっかりと『彼女』の方が登場して所謂"女の本音"を語っている。多分、ここでリスナーの見解は二分される。これはヒカルの本音とリンクしたものか、それとも『俺』同様に、そのような心境を"演じ"ているのか。様々な解釈が可能だろうが、ひとまず、ヒカルがテレビで人間活動の契機のひとつとして『私だけれど私じゃない』と『俺の彼女』とそっくりの台詞を残している事を指摘するに留めておこう。それすらも"演じ"ているとみる事もまた、可能である。

この曲のストーリー性は巧みである。まるで星新一の(という枕詞は本来は余計だ、というのも、掌編小説の作法はほぼ彼によって網羅されているからだ)掌編小説のようにレトリックと視点転換に溢れている。それが音楽的な変化と変遷に呼応していて、何だろう、桑田佳祐が辞めたくなる程うちのめされるのもよくわかる。彼がソロでやりたがりそうなタイプの曲を、こうまで高い次元で実現しているのだから。


『俺の彼女』に次回触れる時は、そのドラマティックな構成と展開について触れてみよう。果たして文字だけでどこまで伝わるかわからないが、やってみる。今週はラジオ特番『宇多田ヒカルのファントーム・アワー』がオンエアされる。これで『Fantome』にももう一山が来る事だろう。既に累算は30万枚を突破している。何とか50万枚まで順調に推移して欲しいものである。