無意識日記々

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(非)日常

昨夜もツイートしたけど、西野カナって相変わらず凄いなぁ。アンドロイドかサイボーグかっていう位にキャラクター設定が徹底して確立されている。そういう意味では人力ボーカロイドでもあるのかもしれない。

新曲の「パッ」も、西野カナという現象が定番化してルーティンワークに入っている事を自虐的に皮肉っているようにも聞こえる。彼女のメインリスナーはそういう風に物事を捉えない人種かもしれないから、それは付随的な事なのだろうが、今までブランドとなるまでヒット曲を連発してきた事の証でもある。こちらからすれば"遠く遥か向こう岸"の人たちへのポップスなわのだろうが(ツイッターのフォロワーさんたちが話題に出す事も滅多にないしなぁ)、「いろいろととてもよくできている」という事実に対しては賞賛を禁じ得ない。

昨今、ここまで"商品"に特化できてるポップスも珍しい。そして実際に売れているのだから大したもんだ。音楽評論家たちからの評価は知らないが、ポップスは実際に多くの人に聞かれて日常の中で機能してなんぼ。この世代でそれを実践できている人材が在る事にまず驚きだ。もしかしたら、そういう態度で音楽を作るという発想自体、既に古い、少なくとも今40代以上の人間にとっては親しんでいる、という性質のものかもしれない。今のメインターゲット層が、10年後に西野カナをどう捉えているか、訊いてみるのも楽しみである。

そうやって商品として日常の中で機能するポップスを作る人が居る一方で、そもそも「今まで日常というものがなかった」と言ってしまう人もポップスを作っていたりする。しかもこちらの方が売れている。相変わらず何もかも規格外。

日常を知らなかったのに、ポップスとして馬鹿売れしたのはどういう事なんだか。いちばん単純な答は「宇多田ヒカルが非日常そのものだから」というもので、これは正しい。

どちらが無理しているんだろう。西野カナの方は、プロジェクト名で、曲の曲調と歌詞に合わせてプロモーション戦略を練り込んでいるイメージだ。場合によっては、最初にプロモーション戦略が在り、それに合う作風の楽曲を提供しているようにすらみえる。「仕事」として割り切ってポップ・ソングという「商品」を「生産」しているようにみえる。西野カナにとっては、九時五時で働いているサラリーマンたちとなんら変わらず、寧ろ彼らと一緒に働いてものを作っているようにみえる。

かたや「息子が生まれるまで人生ずっと非・日常」な人だ。裏を返せば、いや返さないな、そのまんまだ、つまりヒカルにとってミュージシャン生活は日常と呼べるものではなく、「自分に強いた」何かだったように解釈される。いつも無理して頑張って結果を出してきた。だから休止もするし復帰もする。我々にとって宇多田ヒカルが非日常なのと同じように宇多田光にとっても宇多田ヒカルは非日常であり続けた。

なんだか、逆だな。非日常、といわれるとそれこそサイボーグかアンドロイドかという話になりそうなのに、ヒカルの曲からは私小説的な生々しさが溢れている。去年は母への想いを隠さなかった。生きてるヒカルの正直な心の声が吐露される事が非日常と呼ばれるのだろうか。なんて話からまた次回、とスムーズに行くかどうかはわかりませんのです。