無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

daily things

今までの「ミュージシャンとしての生活」に日常を感じられず、今の息子との生活に日常を感じていたとすると、さて、その日常を歌った歌はヒカルにとって日常的なのだろうか非日常的なのだろうか。

なんだか「クレタ人は嘘つきか」みたいな話になっているが、そうでもない。"帰る場所"がどこか、だ。

ぼくはくま』を思い出す。くまちゃんと戯れていたら自然と口をついて出てきた歌。こちらは「日常を歌った歌」ではなく、「日常から生まれた歌」だ。それを作編曲してレコーディングするという"ミュージシャンならではの日常"を経て我々の日常に『ぼくはくま』が生まれ落ちる。こちらもよくできている。

ヒカルは恐らく"気を遣って"カウントをするのを避けているのだ、"くまちゃんとの日々"を。綿だもんね。

しかし、ダヌパは血と鼻水の巡る実体である。「お母さんに休みはない」旨ツイートしていたが、それこそ間断なく彼との生活が続いていって、日々一日々々がヒカルの"帰る場所"を形作ってゆく。つまり、それがじわじわと「家」になるのだ。

「ただいま」「おかえり」と言える何かを日常と呼ぶのなら、ヒカルがそうやって「家」について歌い始めたら、今度こそミュージシャンとしての自分と日常の自分が交錯してゆくだろう。新しい歌詞に何が歌われているか、こういう点に留意して耳をそばだててみるのもいいかもわからない。でももし全編英語詞だったら勘弁してね。(笑)