無意識日記々

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逆三角州

『Fantome』は、恐らく、ヒカルが2010年にアーティスト活動休止を宣言した時には全く想像していなかったアルバムになったのではないかと踏んでいる。

人間活動に入ります、と言った時に『2年になるか5年になるかわからない』とは言っていたが、それでもヒカルは、朧気ながらも、自分がアーティストとして復帰してまた創作や公演に取り組む姿を想像していた筈である。想像ができたからこそ、"引退"という表現を選ばなかった、ともいえる。感覚的にわかっていたのだ、時間が解決してくれる類の問題であると。

もうたらればを言っても仕方がないが、仮にSCv2から休まず活動を続けて次のアルバムを作っていたとしても、それは『Fantome』で見せたハイ・クォリティーに遠く及ばなかったに違いない。というか、ヒカルはそう感じ取っていただろう。努力とか何とかではどうにもならない、ごまかしようがない位に、それは不可避的に襲いかかって抗う術もない。まさに「運命」そのものをヒカルは事前に感じ取っていた。

普通は、だからといって既に結んでしまった契約を反故にする訳にもいかずに活動を無理に続けていわゆるアーティストとしての「低迷期」と呼ばれる時間帯に突入するものなのだが、ヒカルは思い切ってまるまる休んだ。それが奏功した事は、いや、奏功したか否かは各自が『Fantome』を聴いて判断すべきものだ。

というのが元々なぞられるべきロジックだった、筈なのだ。事態は藤圭子の死で大きく変わった。アーティストとしての低迷期をまるまる引っ込む事で回避しようというヒカルの意図は、まるまる崩れた。『人魚』を書くまで、また再び音楽を生み出す自信も予感も総て喪ってしまう程の出来事だった。2010年当時の目論見は、全くと言っていい程消え去った。

更に結婚もして子も授かる。こちらはある程度予想とか期待とか願望はあったかもしれないが、勿論意味合いがまるで違う。一つの生命の死と一つの生命の誕生が対になって記憶に刻まれる。僅か2年の事なのだ。もうすぐ2歳だし、今年初四回目の命日だ。


つまり、何が言いたいかといえば、ヒカルは2010年当時に思い描いていた「復帰作」にあたるものを、実はまだ作っていないんじゃないかという事だ。『Fantome』は人間活動からの復帰というより、母の死と向き合いながら作ったセラピーのようなアルバムだろう。低迷期なんて生易しいものではない、音楽家としての死とギリギリの所で対峙して出来上がったような、そんな重さを感じさせる。これを復帰とか復活というのなら、寧ろ「音楽家宇多田ヒカルの再生」に近い立ち位置かもしれない。

なので、改めて次のアルバムで、いよいよ本来の意味での「人間活動から還ってきた宇多田ヒカルのアルバム」が聴けるんじゃないか、という仮説も立ち上げてみたくなる。折しも、『Fantome』というアルバムを挟んでここで初めての本格的な「レコード会社の移籍」を成したのだ。次の新曲、次の新譜はまるで新天地からの再々…々デビューのような扱いになるかもわからない。Hikaruは一生のうちに何度デビューする気なのやら。

つまり何が言いたいかというと、もしそうなるなら、実は『Fantome』より次のアルバムの方が、『HEART STATION』〜『This Is The One』〜『SCv2d2』という流れの自然な続きとして認知される、そんな作風になるような可能性が考えられるのである。そうなると、一部のファンから「今度こそ本当に"あの"宇多田ヒカルが還ってきた!」と興奮されるような方向性を持ち得ているのではないか、と。

勿論『Fantome』からの流れも消えない。『SCv2d2』から『桜流し』、そして同曲を含む『Fantome』へと脈々と受け継がれているものがあるのも又事実であり、ひとりの真摯なアーティストである以上、嘘のないその作風がなかった事にはならないだろう。つまり次作は、『Fantome』を愛したファンと、どちらかといえば昔の宇多田ヒカルの方が好きだったファンの両方を取り込める作風になる可能性があるのではないか、とそう憶測しているのである。

さて、どうなっていますやら。神のみぞ知る。あと1ヶ月位で新曲かな?