無意識日記々

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CINEMusicA(シネムジカ)

自分は「ミュージック・ビデオ」というとどうしても楽曲そのものではなく、「他人の歌を使った映像作品」という風に捉えてしまうので、作品の名前を曲と同じにしたりクレジットを歌手にしたりというのにどうにも違和感を感じてしまう。紀里谷んみたいに"Kiriya Presents."って堂々とクレジットしてくれるんならまだいいんだけど。

あれでは、誰の何という作品なのかよくわからないのだ。

一方で、曲だけ、音だけという作品もまた不自然極まりないというのもまた事実。蓄音機や無線機・ラジオが出来て一世紀半、「音だけを出す機械」(スピーカーのこと)が齎した"音源"というコンテンツはよくわからないままここまで来ている。

昔は音楽と映像の両方をハイレベルで扱える人間は少なかった、いや居なかったとすら言っていいかもしれない。技術が発達し表現の敷居が下がった今、絵も描ける歌も歌えるという人はかなり自力でミュージックビデオを作れるだろう。

ミュージックビデオ監督宇多田ヒカルの手腕は皆さんも『Goodbye Happiness』で痛感しているだろう。泣くほど感動する人が続出した"歌ってみたパロディMV"である。あのセンスの冴えが再びみられたら、と何度もこの日記で書いてきた。取り敢えずまだ実現していない。『桜流し』のビデオなどはかなり意見が反映されているかもしれないが。

やはり宇多田ヒカルという"ビッグ・プロジェクト"、分業できるところは出来るだけアウトソースして、ヒカルにしか出来ない事、作詞作曲歌唱といったポイントに専念してほしい、そんな感じだろうか。

しかしヒカルの創造性は強大だ。もしかしたらそのうち、「映像と音楽がわかちがたく融合した作品」というのを思いついてしまうかもしれない。曲を書いたら映像が浮かんできただなんて生易しいものではなく、映像と音楽が最初からひとつのアンサンブルとして提示された"作品"を、である。有り得ない話ではない。情報が視覚と聴覚を激しく行き来し相互に作用し合うようなそれは最早ただの曲とか歌とはいえぬ、「真のミュージックビデオ」と呼ぶしかない何かになっている。そんなものがこの世にあるだろうか。そんなものがこの世の中にありえるだろうか。わからない。しかしヒカル監督なら何か思いついてしまいそうな気がする。こちらの願望というより可能な見立て、かな。個人的な希望をいうなら普通に歌作って歌ってて欲しいんだけどね私は;