無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

天使と悪魔、母と娘を結ぶ十字架

『Fantome』からの流れで、ヒカルが作詞すると即座に母・藤圭子/宇多田純子を連想するようになってしまっている。それが正しいのか間違っているのかはわからないが、作詞のインスピレイションの根源的存在である事は間違いがない。

ヒカルの歌詞の受け入れられ方の特徴として、その全方位性が挙げられる。最も極端な例が『Can't Wait 'Til Christmas』で、この歌はクリスマスが大好きな人もクリスマスが大嫌いな人も同じように愛し愛される歌詞をもっている。これは本当に特質が一曲にまとまった特異な楽曲(まぁ何しろ第一期宇多田ヒカルを締めくくった歌だものな)だが、ヒカルの歌詞は正邪愛憎悲喜明暗いずれに流れてもハッキリとしたリアリティを持っている点が突出している。リアリティが消えているのは全方位への原点を描いた『Passion』くらいなものだろうか。

普通歌手というものはどちらかに得意技が偏るものだ。暗い歌が得意な人は「明るい曲も書ける」場合もあるが、主従はハッキリしている。ヒカルにはそれがない。

暗い歌を書いても一筋の光明を見いだすのを忘れないし、明るい歌を書いてもそれだけに終わらないフックを入れてくる。常に両面があって、その時々でどちらの横顔を主に見せるかの違いがあるだけだ。


そんな風にモノを見れるようになった源流は、母との関係にあったのではないか。ヒカルには、母親と愛し愛されの睦まじい時間を過ごした記憶もあれば、悪魔と罵られて傷ついた思い出もある。そしてそれは、多分(全くの勝手な憶測だが)その時々でコロコロと不意をついて入れ替わった。どちらかだけに期待する訳にはいかなかったのではないか。

普通は片方だけである(普通って何の事だと問われたら押し黙るけど)。親との関係が良好な場合は、勿論時には喧嘩したり険悪なムードになったりする事はあるだろうが、基本的な方向性として、そこに愛を感じる事ができるだろう。一方、親を殺したいほど憎んでいる人も、時には少し明るい材料を期待した事もあったかもしれないが、基本的にはその憎しみや恨みの感情は消えない。いずれもどちらかに偏っている。

ヒカルの場合、それが綺麗に真っ二つに別れたのではないか。それはつまり、直観に著しく反するが、ヒカルの精神的アイデンティティが母親ではない事を意味する。「どちらでもない」と決断できるからには、本当にどちらにも頼らない「自己」がそこにあったと解釈する事になる。親を愛する感情も親を憎む感情も、どちらからも離れる事が出来たからヒカルは書ける。どちらも外側から描けるし、どちらも内側から生み出す事が出来るから。

この論理的帰結は経験にそぐわない。「ヒカルのバランス感覚は唯一母親に関しては崩壊する」というのが長年の(メッセを最初からずっと読み込んでいる)私の持論だからだ。ヒカルの精神的アイデンティティは、圭子さんの存命中からずっと彼女に在る筈なのだ。それがそうでないとすると、しかし、『真夏の通り雨』や『大空で抱きしめて』のような歌詞が書けるような気がしてくるのだ。筋は悪い。しかし、そこを切り込んでいくのが老害の役割なのだ。諦めよう。