無意識日記々

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詩と詞の違いの話2017年バージョン

J-popファンにはお馴染み田家秀樹(たけひでき)さんのラジオ番組「J-pop Talking」で佐野元春がこんな事を言っていた。


「僕は自分の事を詩人と思ってない。詩人とは活字としての言葉を繰る文学的な人たちだと思うんだけど、僕は“言葉+ビート&ハーモニー”、そしてそれを統括する"デザイン"ですよね。詩人のやる事とは違う事をやってると思う…」



非常に示唆に富んだ発言だ。というかこれから書きたいテーマに対して非常にいい口火と思い書き起こさせてうただいた。

佐野元春が言っているのは「詩と詞の違い」或いは「詩人と作詞家の違い」である。詩は、オーソドックスには例えば詩集という書籍の体裁で人々の目に留まる。人々に知られる。勿論ここには"朗読"という方法もあって、耳から詩を感じ取るケースも多々あるのだが、まずは詩は目で読む字で出来ている。

一方、詞―もっとはっきり言えば歌詞は、歌の言葉として耳から入ってくる。詩の実在が「字」ならば詞の実在は「音」なのだ。決定的に違う。

「字」は時間に対して不変である。勿論現実には紙に書いた文字は紙の劣化に伴って次第に(何十年・何百年・何千年に渡って)読めなくなっていくが、我々が理想的に「字」に期待するのは不変そのものである。

一方「音」は空気の変化だ。レコードやカセットテープやCDやメモリーカードは…究極的には「字」であって、本当に「音」に期待するものではない。「音」は再生されるその度ごとに空気に変化を与えそれが耳に伝わらなければならない。「字」と「音」は違うものなのだ。


ヒカルの「詞」と「詩」に対する態度が最も表れたエピソードは『テイク5』だろう。同曲の歌詞を書く時ヒカルは歌詞を書くのを諦め詩を書いた、と述べた。少しわかりにくいが、要するに本来歌詞としてメロディーとリズムに言葉を載せる際に当然の事としてやらなければならない幾つもの基礎的なポイント、例えば音韻(頭韻・脚韻etc.)、例えば抑揚や強勢の同調、例えばリフレインやそれに伴う伝統的な構成、などなどを悉く無視をして、ただ素直にメロディーに合わせて言葉を載せたのだ。ヒカルがここで歌詞として行ったのは「符割りを合わせること」くらいだったろうか。

従って『テイク5』はその歌詞だけで「詩」としての強さを持つ。メロディーを抜いてただ朗読をするだけでも通用するし、歌詞カードに印刷してある「字」だけで、「詩」として十分に成立する。我々の多くからしたら『テイク5』の言葉たちは歌詞としてなんら不服はないところだが、ヒカルはきっとちょっと悔しがっている。

とはいえ、ヒカルも「活字としての歌詞」については並々ならぬ拘りをみせたりもする。その昔11年前の『ULTRA BLUE』では一部の歌詞をカタカナで書き切ったり、語尾の文字間隔を変化させて文章を棚引かせたりと様々な工夫を凝らしていた。配信で買ったり、レンタルしただけだったりした方々は御存知ないかもしれない。お金に余裕が出来たらCDも買ってみましょう。いやフツーにデジタルブックレットつけてくれりゃいいんだけどね…。


近作では例えば「SAYONARA」という言葉を、『真夏の通り雨』では『サヨナラ』、『花束を君に』では『さよなら』と使い分けたりしていた。斯様にヒカルは「字」としての歌詞もかなり重視している。その点も踏まえて『Forevermore』の歌詞をみていきたい…のだが、今夜このあとその『Forevermore』のミュージック・ビデオの配信販売が始まるんだったな。梶さんがまた何か企んでるかもしれないから今宵はいつもなら書く「次回はそこら辺の話から」の一文は書かない事にするかな。