無意識日記々

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今のヒカルはスマしている筈なのだ。

染髪強要にせよLGBT揶揄にせよ人種差別にせよ、そこにあるのは圧倒的な同調圧力だ。自分と異なる者を排除する思想。嗚呼、私からは遠い(たぶん)。

よくもまぁそんなに他人の人生に関心を持てるものだと感心するが、それは私がそれなりに自分の価値観で物事を選別している(と少なくとも思いこめている)からだろう。彼らにあるのはアイデンティティ・クライシスだ。自分の価値観が不安だから周囲を自分と同じにする事で不安を解消しようとする。要するにごまかしだわな。いつまで経っても問題の解決しない対処法だ。風邪を引いて熱が上がって熱いからと服を脱ぐようなものだ。ますます悪化する。

しかし、アイデンティティ・クライシスに見舞われていない人間は、当たり前だが他人をどうこうする事に興味が無い。それぞれの人生、それぞれに生きればいい。同調するなら随伴するし、意見を異にするなら袂を分かとう。それだけである。故にアイデンティティ・クライシスに興味見舞われている人間が居たとしても、向こうから相談してこない限りは動かない。一方、問題の設定からして間違っている方は、そのままでは永遠に答に辿り着けない。ナチスを生んでホロコーストを起こすような事があっても、まだ気づかないでいるかもしれない。自然、徹底的な断絶が起こる。

最初に人生を見誤れば見誤るほど、己の人生を肯定できると思える材料を探したくなる。勿論いつまでも見つからないので偽りの答を掲げて進むしかない。必要なのは内省や反省なのだが、そもそもそんな事やった事ないからやり方がわからない。そのまま突っ走っていくしかない。

無謬性神話という言葉は、2017年だ、もう市民権を得ているだろうか。「私は間違わない、間違っていない。」と思い込みその力で世界をひっくり返す事。つまり、「裸の王様」である。服などないと言ってくれる人と「もしかしたらそうなのかもしれない」と素直に疑う心のどちらも持ち合わせていなければ、無謬性神話は突っ走る。どこかで間違い、誤謬を認めなければならないが、大概の人生、もう遅い。

差別の心は脆弱を鎧で固める事で育つ。アンバランスなのである。どこかでバランスをとらなければならないが、脆弱は人間の本質だ。弱さを知る事が知恵による生存戦略を発達させた。打ち倒さなくても、逃げ切らなくても、かわせばいいし、だませばいいし、ごまかせばいい。罪深いとはよく言ったものだ。知恵とは原罪なのである。


主題の周りをぐるぐる回っている。どう踏み込もうかあぐねている。さて、ヒカルのメロディーはどこから来たのだろうか。

私なりの言い方をすれば「思われたが鳴らされなかった音の総て」がメロディーだ。ふとひとつに収束する。大きな生命の為にはより多くの屍が必要である。「あなたは間違いだった」と死を与え続け弔う墓標が新たなる生命となる。だからたぶん、ごまかしているうちはメロディーは生まれない。裸の王様に「お前は裸だ」と言い続けた先にメロディーは生まれる。ならばやはりメロディーは真実である。いつも通りの主題、「メロディーは嘘をつかない」に帰着するトリビアルで他愛ない。

ここから先が難しい。ダヌパに対する愛情が、我々に見えているより遥かに深く大きくもしかしたら"常軌を逸している"かもしれない、と考える。世の母親は「当たり前でしょ」と心得る。冷静に考えよう。あの溺愛至極のくまちゃん(Kuma Chang)相手より更に愛情を注いでいる筈なのだ。綿と、自分で生んだ人間である。較べるのは変だが、甚だしい事は明らかだろう。即ち、今のヒカルはスマしている筈なのだ。その話から11月を迎えよう。